西漢時代138 武帝(五十七) 大宛討伐 前103年

今回は西漢武帝太初二年です。
 
西漢武帝太初二年
戊寅 前103
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月戊申(中華書局『白話資治通鑑』は「戊申」を恐らく誤りとしています)、丞相牧丘恬侯石慶が死にました。
 
閏正月丁丑(中華書局『白話資治通鑑』は「丁丑」を恐らく誤りとしています)、太僕公孫賀を丞相に任命し、葛繹侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、公孫賀は南侯に封じられましたが武帝元朔五年124年)、元鼎五年(前111年)の酎金事件で免じられました。今回、丞相になったので、改めて封侯されました。
 
当時の朝廷は多事多忙で、武帝の大臣に対する督責が厳しかったため、公孫弘の後の丞相は立て続けに罪を問われて死んでいました(李蔡と荘青翟は自殺し、趙周は下獄されて死にました)
石慶は慎重だったため天寿を全うできましたが、それでもしばしば譴責されました。
そのため公孫賀が抜擢されて丞相の職を拝命する時、公孫賀は印綬を受け取らず、頓首涕泣して立ち上がろうともしませんでした。
しかし武帝が公孫賀の体を起こしたため、公孫賀はやむなく拝命し、退出してから「これからは殆(危険)になってしまった」と言いました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、武帝が河東を行幸して后土を祀りました。
天下に五日間の酺(大宴)、五日間の膢(祭祀の名)と門戸の祭祀を命じ、その規模は臘と同等にしました。臘は冬至の後に行われる冬の祭祀です。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
夏四月、武帝が詔を発しました「朕が介山を用事(祭祀)し、后土を祭ったら、どちらでも光応(鬼神の光による反応)があった。よって汾陰、安邑の殊死(死刑)以下の者を赦す。」
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月、吏民の馬を登記して車騎の馬を補充させました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
秋、蝗害がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
貳師将軍李広利が西に向かい、塩水(塩沢)を越えました。道中の小国はそれぞれ城を守って食糧を提供しようとしません。
漢軍はこれらの国を攻撃しましたが、なかなか攻略できませんでした。攻め落としたらその地で食糧を得ましたが、落とせない場合は数日で去りました。
 
郁成に到着する頃には数千の士卒しか残っておらず、皆が飢えて疲弊していました。
李広利は郁成を攻めましたが、郁成が漢軍を大破し、多くの者が殺傷されます。
李広利と李哆、趙始成等が計って言いました「郁成に至ったのにまだ占領できない。(宛の)王都に至ったらなおさらだろう。」
李広利は兵を返して撤退し、敦煌に至りました。士卒は十分の一二しかいません。
そこで使者を送って武帝に上書しました「道が遠く食糧が乏しく、士卒は戦を患いてはいませんが、飢餓に患いており、人が少ないので宛を抜くには足りません。一時兵を解き、更に多くの兵を動員して再び征討に向かうことを願います。」
これを聞いた武帝は激怒して使者を送り、玉門を塞いで「軍中に敢えて(玉門を)入ろうとする者がいたら全て斬れ!」と命じました。
李広利は恐れて敦煌に駐留しました。
この敦煌敦煌県ではなく、敦煌郡を指します。もし敦煌県だとしたら、玉門関より東にあるので、既に玉門関を入ったことになります。玉門関は敦煌郡西端の龍勒県にありました(『漢書地理志下』)
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
武帝は受降城が匈奴から遠く離れていると思い(前年参照)、浚稽将軍趙破奴に二万余騎を率いて朔方から出陣させました。西北に二千余里進んで浚稽山で匈奴の左大都尉と合流し、漢に帰る予定です。
ところが、浞野侯趙破奴が期日に到着した頃、左大都尉が計画を実行しようとして発覚し、単于に誅殺されてしまいました。
匈奴は左方の兵を出して趙破奴を攻撃します。趙破奴は戦いながら行軍し、数千人の首虜(首級と捕虜)を得てから帰還しました。
しかし受降城に至る四百里前で匈奴兵八万騎に包囲されます。
趙破奴は夜の間に抜け出して水を求めましたが、匈奴が隙を見て趙破奴を生け捕りにし(原文「匈奴間捕生得浞野侯」。「間捕生得」を「隙を見て生け捕りにした」と訳しましたが、誤訳かもしれません)、機に乗じて漢軍を急撃しました。漢の軍吏は将を失った罪で誅殺されることを恐れたため、帰国を勧めあう者はなく、匈奴で全滅しました。
単于は大いに喜び、奇兵(遊撃兵。または騎兵)を送って受降城を攻めましたが、攻略できませんでした。そこで漢の辺境に侵入してから兵を帰らせました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十二月、御史大夫児寬が死にました。
 
 
 
次回に続きます。