西漢時代139 武帝(五十八) 漢初の功臣 前102年(1)
己卯 前102年
『資治通鑑』胡三省注によると、延広は名で、姓は伝わっていません。
武帝が東の沿海を巡行し、神仙の類を考察しましたが、結果がありませんでした。
祠官に命じて東泰山を礼祭させました。
更に匈奴は右賢王を酒泉、張掖に進攻させ、都尉を殺して数千人を捕らえました。
ちょうどそこに漢の軍正・任文が援けに来ました。
任文は右賢王軍を攻撃して奪われた捕虜や物資を全て取り返しました。
この年、睢陽侯・張昌が太常(祭祀を主管します)でありながら祭祀に不備があった(乏祠)という罪で国を除かれました。
張耳は趙王(景王)に封じられ、子の張敖が継ぎましたが、張敖は臣下の貫高が高帝暗殺を謀ったため、西漢高帝九年(前198年)に王位を廃されて宣平侯になりました。その後、呂氏が専横した時、子の張偃が魯王に封じられましたが、呂氏が権勢を失うと張偃も王位を廃されて信平侯になり、更に南宮侯に遷されました。諡号は共侯です。
張偃の後、哀侯・張歐を経由して、張生(または「張壬」。『漢書』の表は「張王」としていますが、恐らく「王」は「壬」か「生」の誤りです。『漢書・張耳陳余伝(巻三十二)』では「張生」、『資治通鑑』胡三省注では「張壬」としています)の代になり、罪を犯して国が廃されました。
張昌は張広の子に当たります。
かつて高帝は功臣を封じて百四十三人を列侯にしました。
当時は戦争が終わったばかりだったため、大城名都(大都市)の民人が散亡しており、国が把握している戸口も以前の十分の二三しかいませんでした。大侯でも領地にいるのは万家に過ぎず、小侯は五六百戸しかいません。
高帝は封爵の誓いでこう言いました「黄河が帯となり、泰山が厲(研ぎ石)となったとしても(黄河が帯のように細くなり、泰山が研ぎ石のように小さくなったとしても)、国を永存させ、苗裔まで至らせる(使黄河如帯,泰山若厲,国以永存,爰及苗裔)。」
これを丹書の信(赤い字で書いた誓言)にして申(約束)とし、白馬の盟(白馬を斬って盟を結ぶこと)によって尊重しました。
文帝と景帝の時代に至ると、既に四五世が経過しており、流民が故郷に帰って戸口が増加しました。列侯で大きい者は三四万戸に、小国も以前の倍になり、それに応じて財富も豊かになりました。
しかし列侯の子孫は驕逸で、多くが法禁に触れたため、身を損なって国を失いました。
『資治通鑑』胡三省注によると、四家は鄼侯・蕭寿成(蕭何の子孫で、武帝元狩三年・前120年に述べた蕭慶の子です。蕭慶の諡号は共侯です)、繆侯・酈世宗(または「酈宗」。曲周侯・酈商の子孫です。『史記・高祖功臣侯者年表』と『漢書・高恵高后文功臣表』によると、曲周侯は酈商を継いだ酈寄の代で廃されましたが、景帝が酈商の子・酈堅を繆侯に封じました。諡号は靖侯です。その後、康侯・酈遂成を経て、懐侯・酈世宗の代になっていました)、汾陽侯・靳石封(または「靳石」。汾陽侯・靳彊の子孫です。『史記・高祖功臣侯者年表』と『漢書・高恵高后文功臣表』によると、汾陽侯は厳侯・靳彊、共侯・靳解と継ぎ、景帝時代に康侯・靳胡の代で廃されました。武帝時代になって靳石封が改めて封侯されましたが、汾陽侯ではなく、江鄒侯です)と今回廃された睢陵侯・張昌を指します。
次回に続きます。