西漢時代140 武帝(五十九) 大宛の帰順 前102年(2)

今回は西漢武帝太初三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢が浞野侯趙破奴の兵を失ったため(前年参照)、外征を議論していた公卿は皆、宛への征討を中止し、匈奴遠征に専念することを願いました。
しかし武帝は、既に宛を誅滅する兵を出したのに、小国の宛も落とせなかったら、大夏等の国が漢を軽視するようになると考えました。その結果、宛の善馬は漢に来なくなり、烏孫、輪台等の国も容易に漢の使者を苦しめ、外国の笑い者になってしまいます。
資治通鑑』胡三省注によると、輪台は車師から西に千余里離れており、その西に大宛国がありました。
 
武帝は宛討伐に利がないと主張した鄧光等を処罰し、西域への遠征を拡大することにしました。
囚徒を釈放し、悪少年(素行が悪い若者)や辺騎を動員し、一年余で敦煌に送られた者は六万人を数えます。この数には自ら物資を担いで従った者(自ら従軍した者。原文「負私従者」)は含まれません。また、牛十万、馬三万頭が従い、驢や橐駝(駱駝)は万を数え、齎糧(食糧物資)や兵弩(兵器弓弩)も充分な数量が準備されました。
大遠征のために天下が騒動し、五十余人の校尉が各地から集まって宛討伐に参加しました。
 
宛の城中には井戸が無いため、城外の流水を汲んでいました。武帝は水工を送って城下に流れる水を別の場所の移し、空になった水路を利用して城壁に穴を開けることにしました(下述します)
更に戍甲卒(辺境を守る士兵)十八万を酒泉と張掖の北に送り、居延と休屠の屯兵(『資治通鑑』胡三省注によると、居延県は張掖郡、休屠県は武威郡に属します)に酒泉を守らせ、天下の官吏で罪がある者や亡命者および贅壻(婿入りした男)、賈人(商人)、かつて市籍があった者(かつて商人だった者)、父母か大父母(祖父母)に市籍があった者の七科(七種類)も徴発して兵にしました。
貳師将軍李広利のために食糧を運ぶ車や人も絶え間なく連なります。
武帝は宛を破ってから善馬を選ぶために、馬術に習熟した者二人を執馬校尉と駆馬校尉に任命しました。
 
こうして貳師将軍李広利が再び遠征を開始しました。大軍が動いたため、途中で通った小国は全て迎え出て漢軍に食糧を供給します。
 
漢軍は輪台に至りましたが攻略できず、数日の攻撃の後、虐殺しました(屠之)
この後、抵抗する者なく西に向かい、宛城に至りました。漢兵は三万人になっています。
 
宛兵が漢兵を迎撃しましたが、漢兵が矢を射て敗り、宛兵は退却して城を守りました。
李広利は郁成城を攻めようとしました。しかし軍が郁成城に留められている間に宛が策謀を用いることを恐れ、まず宛城に迫りました。水源を掘って別の方向に流し、攻城を始めます。
宛は元々憂困しており、しかも漢軍に城が包囲されたため、攻城が始まって四十余日経った頃、宛の貴人が謀って言いました「王毋寡(宛王の名)は善馬を隠して漢使を殺した。今、王を殺して善馬を出せば、漢兵は包囲を解くはずだ。もし解かなかったら、その時に力戦して死んでも晩くはない。」
宛の貴人達はこの意見に納得し、共に王を殺しました。
この時、漢軍が外城を破壊し、宛の貴人で勇将の煎靡を捕らえました。
宛の人々は大いに恐れて城中(内城)に走り、王毋寡の頭を使者に持たせて李広利に送りました。
使者が約束しました「漢が我々を攻めなかったら、我々は善馬を全て出して好きなだけ取らせよう。また、漢軍に食糧も供給する。もし同意しないようなら、我々は全ての善馬を殺す。康居の救援ももうすぐ来るから、彼等が来た時、我々は中で、康居は外で、共に漢軍と戦おう。これらを熟考したら、どちらに従うべきだと思うか?」
この時、康居軍は漢兵の勢い盛んな様子を見て前進できずにいました。
しかし李広利は、宛の城中が最近漢人を得て既に井戸を掘る技術を握っており、しかも城内にはまだ大量な食糧があると聞いていたため、考慮してからこう言いました「我々は首悪の者である毋寡を誅殺しに来た。毋寡の頭が既に来たのだから、もし同意しなかったら彼等は城を堅守し、康居も漢兵が疲弊したのを見て宛を援けに来るだろう。漢兵が破れるのは間違いない。」
李広利は宛の約束に同意しました。
 
宛は馬を出して漢軍に自分で選ばせ、同時に多くの食糧を出して漢軍に供給しました。
漢軍は善馬数十頭と中馬以下の牝牡三千余頭を選びました。
李広利は宛の貴人でかつて漢を善遇した昩蔡という者を宛王に立て、盟を結んで兵を退きます。
 
李広利は敦煌の西から兵を発し、数軍に分けて南道と北道から進軍しました。
校尉王申生が千余人を率いて別動隊となり、郁成に至ります。
しかし郁成王が王申生軍を撃滅し、漢兵数人が逃げ帰って李広利の陣に入りました。
李広利は搜粟都尉上官桀に郁成攻撃を命じます。
資治通鑑』胡三省注によると、搜粟都尉は武帝が置いた官で、大司農に属します。
春秋時代楚荘王の少子が上官大夫になり、その子孫が官名を氏にしました。
 
郁成王は康居に逃亡しました。
上官桀は康居まで追撃します。
康居は漢が既に宛を破ったと聞き、郁成王を出して上官桀に与えました。
上官桀は四人の騎士に命じて郁成王を縛って李広利に届けさせました。
しかし上邽の騎士趙弟が郁成王を失うことを恐れたため、剣で首を斬ってから撤兵する李広利の後を追いました。
 
 
 
次回に続きます。