西漢時代141 武帝(六十) 匈奴と西域 前101年

今回は西漢武帝太初四年です。
 
西漢武帝太初四年
庚辰 前101
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
春、大宛王を斬って汗血馬を得た貳師将軍李広利が凱旋して京師に至りました。
武帝は『西極天馬の歌』を作りました。
 
漢軍が通った小国は宛が破れたと聞き、それぞれ子弟を李広利に従わせて漢に送りました。各国の子弟は貢物を献上して武帝に謁見し、そのまま質(人質)になります。
 
漢軍が帰還した時、関に入った馬は千余頭しかいませんでした。
漢書張騫李広利伝(巻六十一)』は「軍が還ってから玉門に入った者は万余人、馬は千余頭だった」としています。
 
今回の出征では軍中の食糧が欠乏したわけでも、戦死者が多かったわけでもありません。しかし将吏が貪婪で士卒を愛さず、侵害略奪したため、多くの者が命を落としました。
ところが武帝は李広利が万里を遠征して凱旋したので、過失を問うことなく、詔を発して李広利を海西侯に、趙弟を新畤侯に封じ、上官桀を少府に任命しました。軍の官吏で九卿になった者は三人、諸侯相や郡守、二千石の官吏になった者は百余人、千石以下の官吏になった者は千余人もおり、奮行した者(自ら従軍した者)は希望した以上の官が与えられました。罪過を罰せられて出征した者は全て罪が除かれましたが、功労は記録されませんでした。士卒に与えた賞賜は四万銭に値しました。
 
漢が大宛を遠征した時、情報を得た匈奴は妨害しようとしましたが、貳師将軍の兵勢が盛んなため、手が出せませんでした。そこで騎兵を楼蘭に発して待機させ、漢の大軍の後に来た漢使の道を塞ごうとしました。
この時、漢の軍正任文が玉門関に駐軍しており、生口(捕虜)を得て匈奴の動きを知りました。
任文は朝廷に報告します。
武帝は詔を発し、任文に便道(小路)から兵を率いて楼蘭王を捕えさせました。
楼蘭王は宮闕に送られて譴責を受けます。
すると楼蘭王はこう言いました「小国楼蘭は大国の間にあり、両方に属さなかったら平安を保てません。国を遷し、漢地に入って生活することを願います。」
武帝はこの言を誠実なものだと判断し、楼蘭王を帰国させました。楼蘭匈奴を窺うように命じます。
この後、匈奴楼蘭を信用しなくなりました。
 
大宛が破れてから西域が震撼しました。漢の使者で西域に入った者は順調に任務を完遂できるようになります。
最後の部分の原文は「益得職」です。「得職」は「職責を全うする」という意味です。西域が漢を軽視しなくなったので、漢の使者が順調に職責を果たせるようになりました。
もしくは「得職」をそのまま「職を得る」と読み、漢の使者が帰国してから勤労を賞されてますます官職を得るようになったと解釈する説もあります。
 
漢は敦煌の西から塩沢に至るまで所々に亭を置き、輪台と渠犂(『資治通鑑』胡三省注によると、渠犂は輪台の東にあり、東南は且末と接し、南は精絶と接しています)には田卒屯田兵数百人がいました。それぞれ使者や校尉を置いて領護屯田の統領保護)し、使者として外国に行く者に食糧を供給しました。
 
一年余してから、宛の貴人が宛王・昩蔡に不満を抱きました。昩蔡は漢にうまく媚びて王になり、自国に殺戮を受けさせたと考えたからです。
そこで宛の貴人達は協力して昩蔡を殺し、毋寡の兄弟蝉封を宛王に立てました。その子を漢に入侍(入朝奉侍。ここでは人質の意味です)させます。
漢は使者を送って蝉封に賞賜を与え、宛を鎮撫しました。
蝉封は毎年天馬二頭を献上することを約束しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
秋、明光宮を建てました。
資治通鑑』胡三省注によると、明光宮は長楽宮の後ろにあり、南が長楽宮に繋がっていて北は桂宮に通じていました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬、武帝が回中に行幸しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴の呴犂湖単于が死にました。
匈奴は弟の左大都尉・且鞮侯を単于に立てます。
 
武帝は宛を討伐した威に乗じて匈奴も困窮させたいと考えていたため、詔を下してこう言いました「高皇帝は朕に平城の憂(高帝七年200年)を残された。高后の時、単于の書は極めて悖逆(正道に背くこと)だった(恵帝三年192年)。昔、斉襄公は九世の讎に報い、『春秋』はこれを大大義とした(斉襄公は先祖が紀侯の讒言によって殺されたため、紀国を滅ぼしました。春秋時代の故事です)。」
 
且鞮侯単于は即位したばかりだったため、漢の襲撃を恐れてこう言いました「私は児子(子供)です。どうして漢の天子を望み見ることができるでしょう。漢の天子は私の丈人行(上の世代。年長者)です。」
匈奴は拘留していた漢の使者で帰順しなかった者を全て帰国させました。路充国武帝元封四年107年参照)等が含まれます。
また、使者を漢に送って貢物を献上しました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
弘農都尉を遷して武関を治めさせ、関を出入りした時に課す税を関の吏卒の食(俸禄)に充てることにしました。
 
 

次回に続きます。