西漢時代141 武帝(六十) 匈奴と西域 前101年
庚辰 前101年
春、大宛王を斬って汗血馬を得た貳師将軍・李広利が凱旋して京師に至りました。
武帝は『西極天馬の歌』を作りました。
漢軍が帰還した時、関に入った馬は千余頭しかいませんでした。
今回の出征では軍中の食糧が欠乏したわけでも、戦死者が多かったわけでもありません。しかし将吏が貪婪で士卒を愛さず、侵害略奪したため、多くの者が命を落としました。
ところが武帝は李広利が万里を遠征して凱旋したので、過失を問うことなく、詔を発して李広利を海西侯に、趙弟を新畤侯に封じ、上官桀を少府に任命しました。軍の官吏で九卿になった者は三人、諸侯相や郡守、二千石の官吏になった者は百余人、千石以下の官吏になった者は千余人もおり、奮行した者(自ら従軍した者)は希望した以上の官が与えられました。罪過を罰せられて出征した者は全て罪が除かれましたが、功労は記録されませんでした。士卒に与えた賞賜は四万銭に値しました。
任文は朝廷に報告します。
楼蘭王は宮闕に送られて譴責を受けます。
大宛が破れてから西域が震撼しました。漢の使者で西域に入った者は順調に任務を完遂できるようになります。
最後の部分の原文は「益得職」です。「得職」は「職責を全うする」という意味です。西域が漢を軽視しなくなったので、漢の使者が順調に職責を果たせるようになりました。
もしくは「得職」をそのまま「職を得る」と読み、漢の使者が帰国してから勤労を賞されてますます官職を得るようになったと解釈する説もあります。
漢は敦煌の西から塩沢に至るまで所々に亭を置き、輪台と渠犂(『資治通鑑』胡三省注によると、渠犂は輪台の東にあり、東南は且末と接し、南は精絶と接しています)には田卒(屯田兵)数百人がいました。それぞれ使者や校尉を置いて領護(屯田の統領保護)し、使者として外国に行く者に食糧を供給しました。
一年余してから、宛の貴人が宛王・昩蔡に不満を抱きました。昩蔡は漢にうまく媚びて王になり、自国に殺戮を受けさせたと考えたからです。
そこで宛の貴人達は協力して昩蔡を殺し、毋寡の兄弟・蝉封を宛王に立てました。その子を漢に入侍(入朝奉侍。ここでは人質の意味です)させます。
漢は使者を送って蝉封に賞賜を与え、宛を鎮撫しました。
蝉封は毎年天馬二頭を献上することを約束しました。
秋、明光宮を建てました。
武帝は宛を討伐した威に乗じて匈奴も困窮させたいと考えていたため、詔を下してこう言いました「高皇帝は朕に平城の憂(高帝七年・前200年)を残された。高后の時、単于の書は極めて悖逆(正道に背くこと)だった(恵帝三年・前192年)。昔、斉襄公は九世の讎に報い、『春秋』はこれを大(大義)とした(斉襄公は先祖が紀侯の讒言によって殺されたため、紀国を滅ぼしました。春秋時代の故事です)。」
また、使者を漢に送って貢物を献上しました。
弘農都尉を遷して武関を治めさせ、関を出入りした時に課す税を関の吏卒の食(俸禄)に充てることにしました。
次回に続きます。