西漢時代145 武帝(六十四) 司馬遷 前99年(2)

今回は西漢武帝天漢二年の続きです。
 
[(続き)] 李陵が敗れた場所は塞から百余里しか離れていませんでした。
情報を聞いた辺塞が朝廷に報告します。
武帝は李陵の戦死を望みましたが、後に李陵が投降したと聞いて激怒しました。
陳歩楽に問責したため陳歩楽は自殺します。
群臣も皆、李陵に罪があると言いました。
ところが、武帝が太史令司馬遷に意見を聞くと、司馬遷は李陵のために尽力してこう言いました「李陵はは親につかえて孝があり、士と一緒にいたら信があり、国家の急に赴くために常に奮闘して自分の身を顧みませんでした。これは普段から畜積されたことであり、国士の風(気風)があります。今回、事を挙げて一度不幸に遭いましたが、自分の身を守って妻子を保とうとしている臣下がこの機に短所を媒糵しているのは(「短所をあげつらって罪を着せようとしているのは」。「媒糵」は「酒母」で、酒を醸造させる時に使います。転じて誣告して罪を形成することを指します)、誠に心が痛いことです。そもそも、李陵が率いた歩卒は五千に満たなかったのに、深く戎馬の地を蹂躙し、数万の師を抑えました。そのため虜匈奴は死者を救って傷者を手伝う暇もなく、弓を引く民をことごとく挙げて共に包囲攻撃しました。(李陵は)千里を転戦して矢が尽き道が窮しましたが、士は空弮(矢がない弓弩)を張り、白刃を冒しても(敵の武器に身を曝しても)、北を向いて死戦しました。このように人の死力を得ることができたのは、古の名将でも及びません。その身は敗戦に陥りましたが、摧敗したところ匈奴を破った戦果)も天下に明らかにするに足ります(其所摧敗亦足暴於天下)。彼が死ななかったのは機会を見つけて漢に報いるために違いありません。」
武帝司馬遷が李広利を貶めたいため、敢えて李陵のために遊説していると考え、誣罔(欺瞞誣告)の罪で腐刑に処しました。
「腐刑」は「宮刑(去勢の刑)」を指します。『資治通鑑』胡三省注によると、男が去勢されたら子を作る能力を失い、その様子は腐木が実を作れないのと同じなので「腐刑」と呼ばれました。
 
久しくして武帝は李陵に援軍が無かったことを悔やみ、こう言いました「陵が塞を出た時に強弩都尉(路博徳)に詔を発して軍を迎えるように命じるべきだった。坐してあらかじめ詔を与えたから、老将に姦詐を生ませてしまった。」
少しわかりにくいので解説します。
李陵が出兵する前に武帝が詔を発して李陵を迎えさせたため、路博徳は出征に反対しました。その結果、武帝は怒って路博徳を西河に向かわせ、李陵が孤立することになりました。
武帝はこれに後悔し、李陵が既に出征して塞を出る時になってから路博徳に詔を下して李陵を迎えさせていれば、国境近くで困窮した李陵を救うことができたはずだと考えました。
 
武帝は使者を送って李陵軍の生き残りで脱出してきた者に労賜(慰労して賞賜を与えること)しました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
秋、民間の巫覡(巫は女、覡は男)が道中で祀ることを禁止し、大捜(大捜索。大規模な取り調べ)を行いました。
原文は「止禁巫祠道中者,大捜」です。
「祠道中」がどういうことかはよくわかりませんが、『漢書』の注釈によると、「道中の祠(祭祀)」によって道を行く百姓(民)に禍を移したようです。民間の呪術と考えられます。
大捜の対象は「姦人」と「巫蠱(呪術の一種)」という説があり、顔師古は「姦人が正しい」としています。
しかし文の流れから呪術を行った者を逮捕したのではないかと思われます。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
西域の渠黎等六国が使者を送って貢物を献上しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝は法によって下の者を制御し、好んで酷吏を尊重信任しました。そのため郡国二千石の官も多くが酷暴な政治を行いました。
しかし吏民は逆に法を犯すことを軽視するようになります。
東方では盗賊が頻繁に起こり、泰山、琅邪の群盗等のように大きな集団は数千人も擁しました。彼等は山を拠点にして城邑を攻め、庫兵(府庫の兵器)を奪ったり死罪の囚人を放ったり、郡太守や都尉を縛って辱しめたり、二千石の官員を殺しました。
小さい集団でも百数人が集まり、郷里で略奪する者は数え切れないほどになりました。その結果、各地の道路が通れなくなりました。
 
以前、武帝は御史中丞と丞相長史に各地を監督させましたが、盗賊を抑えられませんでした。
そこで光禄大夫范昆と元九卿の張徳等に繡衣(官服)を着せ、兵権を示す斧や符節、虎符を持たせ、兵を動員して討伐させました(これを「直指使者」「繡衣御史」等といいます)。ある大郡では万余級が斬首されます。また盗賊の通行や飲食を助けて連座した者も各郡で処刑され、多い所では数千人に上りました。
数年でほとんどの渠率(領導)が捕まりましたが、四散逃亡した者達が再び集まり、山川等の険阻な地形を利用して所々に群居したため、政府も手の打ちようがありませんでした。
 
そこで政府は『沈命法』を作りました。
資治通鑑』胡三省注によると、「沈」は「没」の意味で、盗賊を匿った者は命を没することになりました。または「沈」は「匿う」、「命」は「逃亡(亡命)」の意味ともいいます。
 
『沈命法』はこう規定しました「群盗が起きても発覚(発見)できなかったり、発覚しても全てを逮捕できなかったら(捕弗満品者)、刺史・郡守・二千石の官員以下小吏に至るまで、主者(責任者)を全て死刑に処す。」
この後、小吏は誅殺を畏れたため、盗賊がいても逮捕できない時のことを心配して告発しなくなりました。
また、官府も連座を畏れて下の者に報告させないようにしました。
その結果、盗賊がますます増えていきましたが、上下とも互いに隠して文辞によって法から逃れるようになりました。
 
この頃(天漢二年・前99年)、暴勝之(『資治通鑑』胡三省注によると、暴氏は周の卿士暴公の子孫です)が直指使者を勤めており、誅殺した二千石以下の官員の数が最も多かったため、威が州郡を震わせました。
 
暴勝之が勃海郡に来た時、郡人の雋不疑が賢人だと聞いたため、会見を請いました。
雋不疑は容貌に尊厳があり、衣冠がとても立派でした。
雋不疑が来たと聞いた暴勝之は履(靴)も履かずに立ち上がって迎えに行きました。
二人が堂に登って席を定めてから、雋不疑が拠地(座ったまま両手を地面に置いてお辞儀すること)して言いました「私は海瀕海浜に竊伏(隠居)していますが、暴公子(『資治通鑑』胡三省注によると「公子」は暴勝之の字です)の名を聞いて久しくなります。今、こうして実際に会って話をする機会を得ました(承顔接辞)。吏となる者は誰でも、剛強過ぎたら折れてしまい(太剛則折)、柔らかすぎたら廃されてしまうものです(太柔則廃)。威を行って恩を施せば、その後、功を立てて名を揚げ(樹功揚名)、永遠に天の福禄を全うできるものです(永終天禄)。」
暴勝之はこの戒めを深く受け止めました。
京師に還ってから上奏して雋不疑を推薦します。
武帝は雋不疑を召して青州刺吏に任命しました。
 
済南の人王賀も繡衣御史になり、魏郡の群盗を逮捕することになりました。しかし多くの者が見逃されたため、奉使(皇帝の命を受けて使者になること。皇帝の命を遂行すること)に相応しくないとして罷免されました。
王賀が嘆いて言いました「千人を活かしたら子孫に封があると聞いている。私が活かしたのは万余人もいるが、後世に興隆できるのだろうか。」
 
後に西漢を滅ぼす王莽は王賀の子孫に当たります。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
冬十一月、武帝が関都尉に詔を発しました「今、豪桀は多くが遠くと交わり、東方の群盗に附いている。よって出入りする者を慎重に観察せよ。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、漢が匈奴から降った介和王成娩を開陵侯に封じ、楼蘭国の兵を率いて車師を攻撃させました。
これに対して匈奴が右賢王に数万騎を率いて車師を援けさせます。
漢兵は利がなかったため引き返しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代146 武帝(六十五) 匈奴遠征 前98~96年