西漢時代147 武帝(六十六) 江充 前95~94年

今回は西漢武帝太始二年と三年です。
 
西漢武帝太始二年
丙戌 前95
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、武帝が回中を行幸しました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
三月、武帝が詔を発しました「有司(官員)が議して言うには、以前、朕は上帝と郊見し(郊祭して上帝が現れ)、西は隴首に登り、白麟を得て宗廟に献上し、渥洼水から天馬が出現し、泰山に黄金が現れたから、故名(旧名。旧制)を改めるべきとのことだ。今、黄金を麟趾(下述します)の形に改めて瑞(瑞祥。吉祥)に符合させることにした。」
武帝は序列に順じて諸侯王に下賜しました。
 
漢書』の注によると、白麟を得て馬瑞(天馬の瑞祥)があったため、黄金を麟趾蹄の形にしました。「麟趾」は麒麟の足、「蹄」は「要」という古代の名馬の蹄です。要は赤喙黒身(口が赤くて体が黒い)という姿で、一日に一万五千里を走りました。
黄金には官が定めた特定の形がありました。武帝は吉祥を表すために、今までの形を改めて麟趾蹄の形(麟足馬蹄の形。馬蹄形)に鋳造させることにしました。「故名を改める(改故名)」とはこれを指します。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、旱害がありました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
九月、死罪の者から募り、銭五十万を納めて贖罪したら死一等を減らすことにしました。
 
二年前にもほぼ同じ記述がありました。但し二年前は「令死罪入贖銭五十万減死一等」で、今回は「募死罪入贖銭五十万減死一等」なので、頭の一文字が異なります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
趙の中大夫白公が上奏し、谷口(県名)から櫟陽まで渠(水路)を造って涇水の水を渭中に引き入れるように提案しました。渠の長さは二百里に及び、四千五百余頃の田が灌漑されます。
完成した水路は白公にちなんで白渠と名付けられました。
民が大きな利益を得ました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
御史大夫杜周が死に、光禄大夫暴勝之が御史大夫になりました。
 
漢書武帝紀』と『漢書・百官公卿表下』も本年に杜周の死を書いています。
但し、『百官公卿表下』は翌年(太始三年)三月に「光禄大夫暴勝之が御史大夫になった」としています。
漢書武帝紀』は暴勝之が御史大夫になったことに触れていません。
 
 
 
西漢武帝太始三年
丁亥 前94
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、武帝が甘泉宮を行幸しました。
外国の客を招待しました。
 
二月、天下に五日間の大酺(大宴)を命じました。
 
武帝が東海を行幸し、赤雁を得たため、『朱雁の歌』を作りました。
その後、琅邪を行幸して成山で礼日(日を拝すこと)し、之罘山を登り、船で大海を巡遊してから帰還しました。
資治通鑑』にはありませんが、『漢書武帝紀』によると、山が万歳を唱えました(山称万歳)
 
[] 『漢書百官公卿表下』からです。
三月、光禄大夫で河東の人暴勝之が御史大夫になりました(前年参照)
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
冬、武帝行幸した地で、各戸に五千銭を下賜し、鰥寡孤独(配偶者を失った男女。孤児。身寄りがない老人)に一人当たり一匹の帛を与えました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、皇子劉弗陵が生まれました。
劉弗陵の母は河間の人趙倢伃です。
資治通鑑』胡三省注によると、倢伃は武帝が置いた妃嬪の称号です。位は上卿に等しく、爵は列侯と同等です。
 
趙倢伃は鉤弋宮に住み、妊娠して十四カ月後に劉弗陵を生みました。
武帝が言いました「昔、堯も十四カ月で生まれたと聞いている。今、鉤弋もそうなった。」
劉弗陵が生まれた鉤弋宮の門は「堯母門」と呼ばれるようになりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
趙人の江充が水衡都尉武帝元鼎二年115年参照)になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、水衡都尉の秩は中二千石に当たります。
 
以前、江充は趙敬粛王劉彭祖(景帝の子)の客でした。しかし趙王太子劉丹の罪を得たため逃亡し、宮闕(皇宮の門)に走って趙太子の陰事(秘密)を告発しました。劉丹は罪を問われて趙太子を廃されます。
 
武帝が江充を召して接見しました。
武帝は江充の魁岸(魁偉高大)な容貌と軽靡(軽やかで美しいこと)な被服(衣服)を見て常人ではないと思い、政事について語りました。その結果、江充の能力を知って大変喜びます。ここから江充が寵用されるようになりました。
江充は直指繡衣使者になって貴戚(貴人親戚)や近臣で踰侈な者(度を越えて奢侈な者)を督察しました。
江充が相手を選ぶことなく弾劾したため、武帝は江充を忠直とみなします。江充の言は全て武帝の意を得ました。
 
以前、武帝に従って甘泉宮に行ったことがありました。
ちょうど太子の家使(家の使者。『資治通鑑』胡三省注によると、太子が甘泉宮の武帝に挨拶するために送った使者です)が車馬に乗って馳道を通りました。馳道は皇帝専用の道です。
江充は太子の使者を逮捕して官吏に罪を裁かせました。
それを聞いた太子は人を送って江充に謝罪し、こう言いました「車馬を愛す(惜しむ)のではない。上(陛下)に聞かれて、日頃から(左右の者への)教敕(教育)ができていないと思われたくないのだ。江君の寛恕を望む。」
江充はこれを無視して武帝に報告しました。
武帝は「人臣とはこうでなければならない」と言ってますます信用します。
江充は京師を威震させました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代148 武帝(六十七) 巫蠱 前93~92年