西漢時代154 武帝(七十三) 鉤弋夫人 前88年

今回は西漢武帝後元元年です。
 
西漢武帝後元元年
癸巳 前88
 
後元は武帝最後の年号になります。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、武帝が甘泉を行幸して泰畤で郊祭を行いました。
その後、安定に行幸しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
昌邑王劉髆(哀王)が死にました。
 
劉髆は武帝が寵愛した李夫人が産んだ子です。
しかし李夫人の死後、兄弟の李延年と李季は誅殺され武帝天漢元年100年参照)、李広利も二年前に巫蠱事件が原因で匈奴に降りました武帝征和三年90年)
 
漢書武三王伝』によると、劉髆の子劉賀が昌邑王を継ぎました。
劉賀は後に帝位に即きますが、素行が悪いためすぐ廃されます。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月、武帝が詔を発しました「朕は上帝と郊見した(郊祭して上帝が現れた)。また、北辺を巡遊して群鶴が留まって休んでいるのを見たが、羅罔(網)を使う時ではないので(春は繁殖成長の時なので狩猟をしませんでした)、獲献(捕獲して宗廟に献上すること)しなかった。泰畤で祭祀を行い光景(吉祥。上帝の霊験と鶴の群れを指します)が並んで現れたので、天下を赦すことにする。」
こうして大赦が行われました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、御史大夫商丘成が呪詛の罪に坐して自殺しました。
 
漢書景武昭宣元成功臣表』にはこう書かれています「商丘成が詹事(官名。皇后や太子の官属)として孝文廟の祭祀を行い、酔って堂下で『出居(本来は自分の家を出て住むこと、移住することですが、ここでは仕官の意味かもしれません)してどうして鬱鬱としていられるのか(出居安能鬱鬱)』と歌ったため、大不敬の罪に問われて自殺した。」
しかし『漢書・百官公卿表下』には「祝詛(呪詛)に坐した」とあります。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、「商丘成は詹事ではないので『景武昭宣元成功臣表』の誤り」としています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
侍中僕射馬何羅は江充と親しくしていました。
衛太子(戾太子劉據。衛皇后の子)が挙兵した時、馬何羅の弟馬通が力戦して重合侯に封じられました。
しかし後に武帝が江充の宗族や党與を誅滅したため、馬何羅兄弟は禍が及ぶことを恐れ、反逆を謀りました。
 
侍中駙馬都尉金日磾は二人の意志に尋常ではないものがあると見てとり、心中で疑いました。そこで秘かに二人の動静を窺い、殿中への出入りを二人と共にすることにしました。
馬何羅も金日磾の意図を察したため、久しく動く機会がありませんでした。
 
ある日、武帝が林光宮を行幸しました。
資治通鑑』胡三省注によると、林光宮は甘泉宮の別名です。秦代に二世皇帝胡亥が林光宮を造り、漢が林光宮を拡大して甘泉宮を築きました。
 
金日磾は小疾(軽い病)を患ったため廬(殿中の部屋)に臥せていました。
馬何羅と馬通および小弟の馬安成は金日磾がいない隙を狙って矯制(偽の皇帝の命令)を発しました。夜の間に宮殿から出て共に使者(恐らく皇帝の近臣)を殺してから兵を発します。
明朝、武帝が起きる前に馬何羅が戻りましたが、宮中に入る理由がありません(馬何羅が武帝を暗殺し、二人の弟が外で兵を指揮して呼応する予定のようです)
 
その頃、金日磾が厠に向かいましたが、胸騒ぎがしたため(心動)すぐ殿中に入り、内戸(寝室の戸)の下に坐りました。
するとすぐに馬何羅が袖の中に白刃を隠して東廂から向かってきました。
馬何羅は金日磾を見て顔色を変えましたが、走って寝室に向かい、中に入ろうとしました。しかし宝瑟(楽器の一種)にぶつかって倒れてしまいます。
そこに金日磾が抱きかかり、「馬何羅が反した!」と叫びました。
武帝が驚いて起き上がります。
武帝の近臣が刃(刀)を抜いて戦おうとしましたが、武帝は金日磾にも刃が及ぶことを恐れ、近臣を制止しました。
金日磾が馬何羅を殿下に投げ飛ばし、馬何羅は縛られました。
厳しい調査を経て関係者が全て刑に伏しました。
 
漢書』では「馬通」を「莽通」と書いています。『資治通鑑』胡三省注によると、東漢の明徳馬皇后(明帝の皇后)が馬氏の先祖に反逆者がいたことを嫌ったため、馬氏を莽氏に書き変えさせました。馬氏は伯益の子孫といわれています。また、趙の将軍趙奢が馬服君に封じられ、その子孫も馬を氏にしました。
 
漢書武帝紀』はこの事件を「侍中駙馬都尉金日磾、奉車都尉霍光、騎都尉上官桀が討った」としています。
資治通鑑』は霍光と上官桀に触れていませんが、『漢書霍光金日磾伝(巻六十八)』は「侍中僕射莽何羅と弟の重合侯通が逆を謀った時、霍光が金日磾、上官桀等と共に誅した。功は記録されなかった」と書いています。
武帝を直接危機から救ったのは金日磾ですが、霍光と上官桀も謀反鎮圧の指揮をとったようです。
 
馬何羅は侍中僕射、金日磾は侍中駙馬都尉でした。『資治通鑑』胡三省注を元に侍中と侍中僕射について簡単に解説します(胡三省注の完訳ではありません。抜粋意訳です)
侍中僕射は秦代から置かれている官で、侍中、尚書、郎、軍屯吏、騶(馬や鳥獣を管理する官)、宰(宮中の料理を管理担当する官)、永巷の宦者等全てに僕射がいました。軍屯僕射、永巷僕射等です。
古は武を重視しており、主射(射術を主に担当する者。射術を得意とする者)がそれぞれの部署の職務を監督したため、僕射と呼ばれました。「僕」は「僕役(従事)」または「主(主管)」を意味します(『通典職官四(巻二十二)』参照)
侍中は本来、秦の丞相史(丞相の補佐官)でした。丞相が五人を殿内東廂に行き来させて皇帝に奏事したので、侍中といいます。皇帝の用件に備えて殿中に侍るという意味です。
西漢時代は定員がなく、多ければ数十人に上り、禁中に入って皇帝に侍りました。分担して乗輿服物から褻器虎子(沐浴の道具や便器)の類まで管理します。
武帝の時代、孔安国が侍中になり、儒者だったため御座玉座と唾壺(たんつぼ)の管理を許可されました。朝廷はこれを光栄な事だとみなしました武帝元朔二年127年にも述べました)
久しく侍中の官にいる者が僕射(長官)になりました。
東漢時代の侍中は少府に属しました。やはり定員はいません。光武帝が僕射を祭酒に改名しました。
漢代の侍中は中官(宦官)と一緒に禁中にいましたが、侍中馬何羅が謀反したため、侍中は禁外(宮外)に出されて、皇帝に用事がある時だけ中に招かれることになりました。
王莽が政権を握ってからは、再び侍中が禁中に入れられて、中官と共に皇帝に侍ることになります。
しかし東漢章帝の時代、侍中郭挙が後宮と通じて佩刀を抜き、皇帝を脅かしたため、郭挙は誅に伏し(実際に郭挙が誅殺されるのは東漢和帝の時代のはずです)、侍中はまた禁外に出されることになりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、地震があり、所々で泉が涌き出ました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝には六人の子がいました。長子は衛皇后の子で元太子の劉據です。巫蠱の獄に坐して自殺しました武帝征和二年91年)
劉據の弟に王夫人の子劉閎、李姫の子劉旦と劉胥、李夫人の子・劉髆、趙倢伃弋夫人)の子劉弗陵がいます。
劉閎、劉旦、劉胥は武帝元狩六年(前117年)にそれぞれ斉王、燕王、広陵王に封じられました。
このうち、斉王劉閎(懐王)武帝元封元年(前110年)に死に、子がいないため斉国は廃されました。
劉髆(哀王)武帝天漢四年(前97年)に昌邑王に封じられましたが、本年に死に、子の劉賀が跡を継ぎました。
劉弗陵は武帝太始三年(前94年)に生まれました。幼いためまだ封王されていません。
 
元太子劉據と斉王劉閎が死んだため、燕王劉旦は自分が太子になる番が来たと考えました。
そこで劉旦は武帝に上書して宿衛として皇宮に入ることを求めました。
しかし武帝は激怒し、劉旦の使者を北闕で斬りました。
また、劉旦が亡命者を匿っているという罪を問い、良郷、安次、文安の三県を削ります。
この後、武帝は劉旦を嫌うようになりました。
 
劉旦は辯慧(聡明で弁才があること)博学で、弟の広陵劉胥は勇力がありましたが、どちらも行動に法度がなく過失が多かったため、武帝は二人とも太子に選びませんでした。
 
鉤弋夫人の子劉弗陵は数歳でしたが、体が大きく聡明だったため、武帝は劉弗陵を特に愛し、心中で太子に立てたいと思っていました。しかし年が幼く母も若いため久しく躊躇して決断できません。
そこで武帝はまず劉弗陵を補佐する大臣を選ぶことにしました。群臣を観察したところ、奉車都尉光禄大夫霍光(霍去病の異母弟)だけが忠厚で大事を任せられると判断します。
武帝は黄門(皇帝に諸物を供給する官署)に命じて西周の周公が幼い成王を背負って諸侯の朝見を受けている絵を描かせ、それを霍光に下賜しました。
 
数日後、武帝が鉤弋夫人を譴責しました。
夫人は簪と珥(耳飾)を外し、叩頭して謝罪します。
しかし武帝は「連れていけ。掖庭の獄に送れ」と命じました。
資治通鑑』胡三省注によると、掖庭は少府に属します。秘密の獄があり、宮人で罪を犯した者が入れられました。
 
鉤弋夫人が顧みましたが、武帝は「早く行け。汝は活きているわけにはいかないのだ」と言って死を命じました。
 
暫くして武帝が暇な時に左右の者に問いました「外人(外の者)(鉤弋夫人を殺した事を)何と言っているか?」
左右の者が答えました「人々はこう言っています『もうすぐ子を(太子に)立てるのに、なぜその母を去らせたのか。』」
武帝が言いました「そうだろう(然)。これは児曹(汝等。年下の者を指します)のような愚人が分かることではない。古から今に至るまで、国家に乱が起きる理由は主が幼く母が壮盛だからだ。女主が独居したら(一人で国を操る地位に居たら)驕蹇(驕慢)かつ淫乱自恣(淫乱放縦)になり誰にも止められない。汝は呂后の前例を聞いたことがないのか。だから先に去らせなければならなかったのだ。」
 
資治通鑑』のこの記述は『史記外戚世家』(褚少孫が加筆した部分)が元になっています。『漢書外戚伝上(巻九十七上)』では、鉤弋夫人は「憂死」となっています。
 
 
 
次回に続きます。

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