西漢時代154 武帝(七十三) 鉤弋夫人 前88年
癸巳 前88年
後元は武帝最後の年号になります。
その後、安定に行幸しました。
昌邑王・劉髆(哀王)が死にました。
劉髆は武帝が寵愛した李夫人が産んだ子です。
劉賀は後に帝位に即きますが、素行が悪いためすぐ廃されます。
二月、武帝が詔を発しました「朕は上帝と郊見した(郊祭して上帝が現れた)。また、北辺を巡遊して群鶴が留まって休んでいるのを見たが、羅罔(網)を使う時ではないので(春は繁殖成長の時なので狩猟をしませんでした)、獲献(捕獲して宗廟に献上すること)しなかった。泰畤で祭祀を行い光景(吉祥。上帝の霊験と鶴の群れを指します)が並んで現れたので、天下を赦すことにする。」
こうして大赦が行われました。
『漢書・景武昭宣元成功臣表』にはこう書かれています「商丘成が詹事(官名。皇后や太子の官属)として孝文廟の祭祀を行い、酔って堂下で『出居(本来は自分の家を出て住むこと、移住することですが、ここでは仕官の意味かもしれません)してどうして鬱鬱としていられるのか(出居安能鬱鬱)』と歌ったため、大不敬の罪に問われて自殺した。」
侍中僕射・馬何羅は江充と親しくしていました。
衛太子(戾太子・劉據。衛皇后の子)が挙兵した時、馬何羅の弟・馬通が力戦して重合侯に封じられました。
しかし後に武帝が江充の宗族や党與を誅滅したため、馬何羅兄弟は禍が及ぶことを恐れ、反逆を謀りました。
侍中・駙馬都尉・金日磾は二人の意志に尋常ではないものがあると見てとり、心中で疑いました。そこで秘かに二人の動静を窺い、殿中への出入りを二人と共にすることにしました。
馬何羅も金日磾の意図を察したため、久しく動く機会がありませんでした。
金日磾は小疾(軽い病)を患ったため廬(殿中の部屋)に臥せていました。
馬何羅と馬通および小弟の馬安成は金日磾がいない隙を狙って矯制(偽の皇帝の命令)を発しました。夜の間に宮殿から出て共に使者(恐らく皇帝の近臣)を殺してから兵を発します。
その頃、金日磾が厠に向かいましたが、胸騒ぎがしたため(心動)すぐ殿中に入り、内戸(寝室の戸)の下に坐りました。
するとすぐに馬何羅が袖の中に白刃を隠して東廂から向かってきました。
馬何羅は金日磾を見て顔色を変えましたが、走って寝室に向かい、中に入ろうとしました。しかし宝瑟(楽器の一種)にぶつかって倒れてしまいます。
そこに金日磾が抱きかかり、「馬何羅が反した!」と叫びました。
武帝が驚いて起き上がります。
金日磾が馬何羅を殿下に投げ飛ばし、馬何羅は縛られました。
厳しい調査を経て関係者が全て刑に伏しました。
『漢書』では「馬通」を「莽通」と書いています。『資治通鑑』胡三省注によると、東漢の明徳馬皇后(明帝の皇后)が馬氏の先祖に反逆者がいたことを嫌ったため、馬氏を莽氏に書き変えさせました。馬氏は伯益の子孫といわれています。また、趙の将軍・趙奢が馬服君に封じられ、その子孫も馬を氏にしました。
『資治通鑑』は霍光と上官桀に触れていませんが、『漢書・霍光金日磾伝(巻六十八)』は「侍中僕射・莽何羅と弟の重合侯・通が逆を謀った時、霍光が金日磾、上官桀等と共に誅した。功は記録されなかった」と書いています。
武帝を直接危機から救ったのは金日磾ですが、霍光と上官桀も謀反鎮圧の指揮をとったようです。
古は武を重視しており、主射(射術を主に担当する者。射術を得意とする者)がそれぞれの部署の職務を監督したため、僕射と呼ばれました。「僕」は「僕役(従事)」または「主(主管)」を意味します(『通典・職官四(巻二十二)』参照)。
侍中は本来、秦の丞相史(丞相の補佐官)でした。丞相が五人を殿内東廂に行き来させて皇帝に奏事したので、侍中といいます。皇帝の用件に備えて殿中に侍るという意味です。
久しく侍中の官にいる者が僕射(長官)になりました。
漢代の侍中は中官(宦官)と一緒に禁中にいましたが、侍中・馬何羅が謀反したため、侍中は禁外(宮外)に出されて、皇帝に用事がある時だけ中に招かれることになりました。
王莽が政権を握ってからは、再び侍中が禁中に入れられて、中官と共に皇帝に侍ることになります。
秋七月、地震があり、所々で泉が涌き出ました。
劉據の弟に王夫人の子・劉閎、李姫の子・劉旦と劉胥、李夫人の子・劉髆、趙倢伃(鉤弋夫人)の子・劉弗陵がいます。
元太子・劉據と斉王・劉閎が死んだため、燕王・劉旦は自分が太子になる番が来たと考えました。
そこで劉旦は武帝に上書して宿衛として皇宮に入ることを求めました。
しかし武帝は激怒し、劉旦の使者を北闕で斬りました。
また、劉旦が亡命者を匿っているという罪を問い、良郷、安次、文安の三県を削ります。
この後、武帝は劉旦を嫌うようになりました。
数日後、武帝が鉤弋夫人を譴責しました。
夫人は簪と珥(耳飾)を外し、叩頭して謝罪します。
しかし武帝は「連れていけ。掖庭の獄に送れ」と命じました。
『資治通鑑』胡三省注によると、掖庭は少府に属します。秘密の獄があり、宮人で罪を犯した者が入れられました。
鉤弋夫人が顧みましたが、武帝は「早く行け。汝は活きているわけにはいかないのだ」と言って死を命じました。
左右の者が答えました「人々はこう言っています『もうすぐ子を(太子に)立てるのに、なぜその母を去らせたのか。』」
武帝が言いました「そうだろう(然)。これは児曹(汝等。年下の者を指します)のような愚人が分かることではない。古から今に至るまで、国家に乱が起きる理由は主が幼く母が壮盛だからだ。女主が独居したら(一人で国を操る地位に居たら)驕蹇(驕慢)かつ淫乱自恣(淫乱放縦)になり誰にも止められない。汝は呂后の前例を聞いたことがないのか。だから先に去らせなければならなかったのだ。」
次回に続きます。