西漢時代156 武帝(七十五) 昭帝即位 前87年(2)

今回は西漢武帝後元二年の続きです。武帝の時代が終わります。
 
[] 『漢書武帝紀』『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月戊辰(十五日)、太子劉弗陵が皇帝の位に即き、高廟を拝謁しました。
劉弗陵を昭帝といいます。
漢書』の注によると、即位後は劉弗に改名しました。二字を諱(実名)として避けるのが困難だからです。
 
昭帝は八歳だったため、姉鄂邑公主が長公主武帝の長女)として省中(禁中)で世話をしました。鄂邑公主は湯沐邑が増やされます。
資治通鑑』胡三省注によると、孝元皇后西漢元帝の皇后)の父の名が禁だったため、諱(実名)を避けて禁中を「省中」と呼ぶようになりました。
 
大将軍・霍光、車騎将軍・金日磾、左将軍・上官桀が共に尚書の政務を兼任して朝政を掌握しました(領尚書事)
霍光が幼主を補佐して政令を出し、金日磾と上官桀が霍光を補佐します。天下の人々が霍光の風采を確かめたがりました。
 
殿中で怪事が起きました(具体的な内容は分かりません)。一晩中、群臣が驚いて騒然としています。
霍光は尚符璽郎(璽や虎符、竹符の半分を管理する官)を招き、異変に備えて皇帝の璽を回収しようとしました。
しかし郎が渡さないため、霍光は強引に奪い取ろうとします。
すると郎は剣に手を置いて「臣の頭は得られますが璽は得られません!」と言いました。
霍光は郎の義心を称賛します。
翌日、詔によって郎の秩を二等増やしました。
衆庶(民衆)は霍光をますます尊重しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月甲辰(二十二日)孝武皇帝を茂陵に埋葬しました。
漢書武帝紀』の注によると、茂陵は長安から西北八十里の場所にありました。
 
[] 『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、東方に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
 
[] 『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。
済北王劉寬が禽獣行の罪に坐して自殺しました。
「禽獣行」とは「禽獣のような行い」という意味で、『資治通鑑』胡三注によると「内乱」を指します。家庭内の倫理を乱す行為です。
 
漢書淮南衡山済北王伝(巻四十四)』に少し詳しく書かれています。
劉寬は父である式王(または「成王」)の王后光や姫(妃)孝児と姦通して人倫を乱し、更に祭祀で帝武帝か昭帝かはわかりません)を呪詛したため、有司(官員)が誅殺を請いました。
帝は大鴻臚利を送って劉寛を招きましたが、劉寛は自剄して死にました。
済北王国は除かれて北安県になり、泰山郡に属すことになりました。
 
劉寬の父は劉胡(成王)、その父は劉勃(貞王)で、劉勃の父は淮南厲王劉長です。劉長は高帝の子で、文帝の時代に王位を廃されて自殺しました。
 
[] 『漢書帝紀からです。
昭帝が長公主と宗室の兄弟に序列に基いて賞賜を与えました。
また、趙婕伃(昭帝の母)を追尊して皇太后とし、雲陵を築きました(趙婕伃は雲陽に埋葬されていたため、雲陽に雲陵が造られました)
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
冬、匈奴が朔方に入り、吏民を殺略しました。
漢は軍を発して西河に駐屯させ、左将軍上官桀を北辺に向かわせました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代157 昭帝(一) 趙倢伃と昭帝