西漢時代184 宣帝(八) 宣帝中興 前68年(2)

今回は西漢宣帝地節二年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
宣帝が親政を始めましたが、大将軍霍光の功徳に報いようと思い、霍光の兄(霍去病)の孫霍山を楽平侯に封じました。奉車都尉のまま尚書の政務を兼任させます(領尚書事)
但し、下の者の状況を知るために群臣が封事(密事。密封した奏書)で上奏することを許可しました。
 
魏相が昌成君許広漢(許皇后の父)を通して封事を上書しました「『春秋』は世卿(卿の世襲を批判し(譏世卿)、宋の三世(三代)が大夫(臣下)の娘を娶ったこと(「悪宋三世為大夫」。『資治通鑑』胡三省注によると、『公羊伝』に記述があり、宋三世は襄公、成公、昭公を指します。『公羊伝』の原文は「悪宋三世無大夫」です)および魯季孫が専権したことを憎みました。全て国家を危うくさせて乱したからです。後元武帝の年号)以来、禄(俸禄の管理)は王室から去り、政は冢宰(大臣)が行っています。今、霍光が死にましたが、子(霍禹)がまた右将軍になり、兄の子(霍山)が枢機(中枢)を主持し(領尚書事を指します)、昆弟(兄弟)、諸壻(娘婿)が権勢を占有して兵官将官におり、光夫人顕および諸女(娘)は皆、長信宮に通籍し(入宮を許可する登記がされており。『資治通鑑』胡三省注によると、籍は二尺の竹牒で、年齢、姓名、容貌を書いて宮門に掛けられていました)、ある時は夜でも詔を発して門を出入りしており、驕奢放縦になっているので、徐々に抑制できなくなることを恐れます。彼等の権を損奪して陰謀を破散させることで、万世の基(基礎)を固めて功臣の世(子孫)を全うさせるべきです(霍氏の陰謀を阻止できれば霍光の子孫を保つことができます)。」
 
漢の前例では、上書はいつも二封(二通)準備され、一封には「副」と書かれていました。尚書の政務を行っている者がまず副封を開き、内容が相応しくなかったら上奏を止めることになっています。
魏相はまた許伯(許広漢)を通して宣帝に意見を述べ、皇帝への上奏が妨害されることを防ぐために副封を除くように進言しました。
納得した宣帝は詔を発して魏相を給事中に任命し、魏相の意見に全て従いました。
 
給事中は禁中に入ることができるので、魏相は皇帝の側近として権力を握るようになります。
皇帝を中心とした権勢の中心を中朝(内朝)といい、朝廷の三公九卿や群臣を外朝といいます。
霍山は「領尚書事」なので内朝に属しますが、上奏文を事前に確認できなくなったので、尚書としての権力が削られることになりました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
宣帝は閭閻(閭は里の門。閻は里中の門です。ここでは里巷市井を指します)から帝位に登ったので民事の困苦を理解していました。
霍光が死んだため親政を開始し、厲精(精神を振うこと)して政事を行いました。五日に一回群臣の詳しい報告を聞きます。丞相以下群臣がそれぞれ職責に基いて報告し、意見を述べてから、功能(効果)を考察試験しました。
侍中や尚書で功労があって昇格させるべき者や、特に優秀な者には、賞賜を厚く加えて子孫に至るまで改めませんでした(子孫にも厚い賞賜が与えられました)
枢機(中枢。政治の中心)は周密で、品式(法式。法度)が備わり、上下が互いに安んじ、目先の事だけをやり過ごそうという態度が無くなります。
刺史、守、相を任命する時は、宣帝が自ら会って質問し、経歴を観察し(観其所由)、退いてからは(着任してからは)行動が発言と一致しているかどうかを考察しました。名実が伴わない者がいたら必ずその理由を追求します。
 
宣帝は常にこう言いました「庶民がその田里で安んじることができて嘆息愁恨の心が無いのは、政治が公平で訴訟が理にかなっているからだ(政平訟理)。私とそれを共にするのは良二千石(優秀な二千石の官。郡守や諸侯の相等、地方の長官)だけだ。」
宣帝は太守が吏民の根本なので、しばしば交替したら下の者が不安になり、逆に太守の任期が久しくて民が欺罔(欺瞞。偽りや隠し事)できないと知ったら、太守の教化に服従するはずだと考えました。そこで二千石(太守)の政治に成果があったらいつも璽書を発して激励し、秩を増やし、金を下賜しました。ある者は褒賞によって爵位が関内侯に昇りました。
公卿に欠員ができたら普段の表現(褒賞や爵位を元に太守から人選し、序列に順じて中央で用いました(地方に派遣された太守を重視することで中央に欠員ができた時、優秀な人材を地方から補充することができました)
このため漢代の良吏はこの時代が最も盛んになりました。
歴史上、宣帝の治世は「宣帝の中興」と称されています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴壺衍鞮単于が死に、弟の左賢王が即位して虚閭権渠単于になりました。
虚閭権渠単于は右大将の娘を大閼氏にし、前単于が寵愛した顓渠閼氏を退けました匈奴の風習では前単于が死んだら新単于がその妻を娶ります)。そのため、顓渠閼氏の父左大且渠が虚閭権渠単于を怨みました。
資治通鑑』胡三省注によると、顓渠閼氏は単于の元妃(第一妃)で、次が大閼氏です。
 
当時、漢は匈奴が衰退して漢の辺境を侵す力がないと考え、塞外諸城の守りを解いて百姓を休ませていました。
それを聞いて喜んだ単于は貴人と謀り、漢と和親しようとしました。
しかし左大且渠が心中で妨害しようと企み、こう言いました「以前、漢使が来た時、兵が後ろに着いて来ました。今は(我々が)漢に倣って兵を発し、まず使者を入れるべきです。」
左大且渠は自ら呼盧訾王とそれぞれ一万騎を率いて出撃することを請いました。
匈奴軍は南の辺塞に沿って狩猟を行い、合流してから共に進攻する予定です。
しかし匈奴軍が漢の辺塞に着く前に、三騎が逃走して漢に降ってしまいました。匈奴が辺境を侵そうとしているという情報が漢に入ります。
 
宣帝は詔を発して辺境の騎兵を動員し、要害となる場所に駐屯させました。また、大将軍軍監治衆(治衆は人名です。姓氏はわかりません)等の四人に五千騎を指揮させ、三隊に分かれて塞から出撃させました。三隊は数百里進んでそれぞれ数十人を捕虜にしてから引き上げます。
匈奴は三騎が逃走して情報が漏れたため、漢の国境に入ろうとせず退却しました。
 
この年、匈奴を飢饉が襲い、人民、畜産の十分の六七が死にました。しかし匈奴は両屯からそれぞれ一万騎を出して漢に備えました。
 
秋、匈奴がかつて得た西少数民族のうち、匈奴左地匈奴東部)に住む者数千人が、君長に率いられ、皆、畜産を逐って移動しました。しかし甌脱匈奴の辺境)匈奴と遭遇して戦い、多くの者が殺傷されたため、南に向かって漢に降りました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代185 宣帝(九) 皇太子 前67年(1)