宮城谷昌光『三国志読本』にがっかり

宮城谷昌光という作家の中国歴史小説のファンはとても多いと思います。
私も大好きでした。でも、今回、『三国志読本』を勝って非常にがっかりしました。
以下、宮城谷小説ファンの方は読むとムカムカしてくると思いますので、ご遠慮ください。
 

私は高校時代に『天空の舟』『夏姫春秋』『重耳』などの作品に出会って完全にはまってしまい、宮城谷小説なら、長編でも短編でも、本屋で見つけたら迷うことなく買っていました。
 
その後、いろいろな事情があって中国に渡り、日本の本屋から離れたため、年に数回、帰国した時しか宮城谷小説に触れられなくなってしまいました。
何年前の事かは忘れましたが、久しぶりに日本に帰り、書店で宮城谷『三国志』を見つけた時は、大いに感激したものです。当時は二巻しか出ていなかったため、とりあえず二巻だけ買いました。当然、すぐその世界に引き込まれたのですが、読後の充実感よりも二巻しかないもどかしさの方が強かったことを覚えています。そして、一巻ごと読むのではなく、全巻そろうのをまって一気に読破しようと決意しました。
しかしその後、全巻をまとめ買いする機会がなく、今日まで至っています。
 
先週、日本に一時帰国し、昨日、羽田から中国に飛びました。
羽田空港で搭乗を待つ間、お土産屋さんなどをプラプラしていたら、「宮城谷昌光三国志読本』」という文庫本が目に入りました。本編の『三国志』はまだ読破していませんが、宮城谷『三国志』の世界に浸ってみたいという欲求が働いて、即時購入しました。
でも、今は買わなければよかったと思っています。
 
昨日の中国南方空港の飛行機はとても小さく、テレビもなかったため、さっそく『三国志読本』を開きました。
本の帯に「宮城谷昌光の世界へ 最良の案内書(ガイドブック)」と書かれている通り、まさにガイドブックで、小説のような奥深さは感じませんでした。でも、ガイドブックと知って買ったので、それ自体には不満はありません。興味がないところは飛ばして、気軽にサラサラと読むことができるので、飛行機や電車の中で読むにはちょうどいいかと思います。
 
何が残念だったかというと、高校時代から憧れに近い感情を抱いていた宮城谷昌光氏という作家が、こんな考えを持っていたんだ、ということを知ってしまったからです。
ここでその内容を引用させていただきます。
 
なお、この『三国志読本』は20145月に単行本が出て、20175月に文庫本(文春文庫)になったようなので、本としてはまだ新しいのですが、収録している内容は過去の解説や対談です。
これから引用する個所は対談の一部です。対談相手は「水上勉(作家)」という方ですが、私は読んだことがありません。
対談は1996年の『小説新潮』八月号に収録されたようです。
 
以下、文春文庫『三国志読本』143ページから約3ページの内容です。
 
宮城谷
漢字は、面白いんです。たった一語でもいろいろな話ができるのですから。だから、簡体字みたいに、字を変えてしまったということは大問題ですね。
 
水上
あれは不愉快だ。
 
宮城谷
いやもうひどいですよ。新しい字はほんとに読みにくい。実際、日本の平仮名を採用する案もあったらしいですが。日本に追随するなんてプライドが許さないということで、やらなかったらしいですけどね。むちゃくちゃに壊してます。だから、中国の人が古い字がもう読めなくなる可能性があるわけですよ。そうすると、古典が読みたくても、読めない時代が来てしまうんじゃないか。じゃあ、どこに行くのかというと、日本へ聞きにくることになる可能性だってありますよ。
 
水上
僕は、他国を侮蔑したくないけど、略字新字の問題ではあの国は困った国だと思います。だって、僕たちは一生懸命、あの国の字を勉強したのよ。それをかんたんに棄てちゃった、ひどい。文化大革命以後、中国の人たちは、何か美しいものとか、いいものとか、宗教的に深いものさえ忘れてしまって、お金に走ってるようなところがありますよね。(略)
 
宮城谷
だから、例えば私が書いている小説の人名、重耳(ちょうじ)にしても晏子(あんし)にしても、中国から日本に来ている若い人たちにその話をしても、誰も知りませんね。重耳も知らなければ晏子も知りません。そういう時代なんです、今の中国とは。歴史が長すぎて、覚える人名が多すぎるということもあるんですね。とおりいっぺんの覚え方しかしない。諸葛孔明は知らないけど、諸葛亮なら知ってますという言い方をするんですよ。どうもそういう教育の状態に、中国はなっているんじゃないかな。非常に残念なことだと思ってます。でも、文化って、だいたいそういうものだと思うんですよ。
 
水上
なるほど。
 
宮城谷
本流は必ず荒廃してきますね。古い時代、つまり春秋時代でも、『夏姫春秋(かきしゅんじゅう)』で書いたように、鄭の国とか衛の国だとか、黄河の一番いいとこにある国は、ものすごく栄えるけれども、全部、文化的なものが頽廃していきます。そして、作法だとか礼儀だとかいうものが、未開と思われている国へ全部流れていくんです。そこで定着するんですね。結局、文化の古いものを訪ねても、中央にはもうないんです。全部地方に流れている。だから、中国になくなっているものでも、日本にあり得る可能性があるんです。辺境の地ですからね、日本は。正倉院には、他の国のものも混ざっているでしょうけれど、いろんなものが残っていますよね。文化ってそういうものでしょう。だから今の中国がそうなら、日本が受け止めて、保存していくという立場になるんじゃないでしょうか。
 
 
以上が引用文です。
率直な感想は、「古代中国には詳しいかもしれないけど、現代中国には向かい合おうとしない人が、独りよがりな意見を述べている」でした。
 
詳しい内容は字数の関係で次回以降に書きます。