西漢時代190 宣帝(十四) 霍氏滅亡 前66年(2)

今回は西漢宣帝地節四年の続きです。
 
[七(続き)] この頃、霍禹や霍山等の家でしばしば不思議な事が起きました。以下、『霍光金日磾伝(巻六十八)』からです。
霍光夫人顕が夢を見ました。府邸内の井戸水が溢れて庭に流れ出し、竈(かまど)が樹の上にあります。
また別の夢では、大将軍霍光が夫人顕に「子供達が逮捕されることを知っているか?もうすぐ逮捕される」と言いました。
突然、府邸内で鼠が大量発生し、人とぶつかり、尾で地面に図を描いたこともありました。
(ふくろう。悪鳥とされていました)が殿前(広大な屋敷を「殿」といいます。宮殿とは限りません)の樹にとまって数回鳴いたこともありました。
府邸の門が自然に壊れたこともありました。
霍雲の尚冠里(地名)の邸宅でも中門が壊れました。
巷端(街巷の端)の人々が、霍雲家の屋根の上に人がおり、瓦をはずして地面に投げつけている姿を見ましたが、近づいてみると誰もいないため、とても不思議がりました。
霍禹は夢の中で車騎が音を立てて自分を捕えに来る様子を見ました。
 
漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』に戻ります。
このような事が続いたため、霍家の者は皆、憂愁しました。
霍山が言いました「丞相が勝手に宗廟に奉げる羔(小羊)、菟(兔)、鼃(蛙)を減らした。これを罪にできる。」
資治通鑑』胡三省注によると、高后(呂皇后)時代に令を定め、宗廟に関して勝手に制度を議定する者は棄市に処すと決められました。
 
霍山達は陰謀を練り、まず上官太后を使って博平君(王媼)のために酒宴を開かせることにしました。そこに丞相(魏相)、平恩侯(許広漢)とそれぞれの部下も招きます。
その後、范明友と鄧広漢が太后の制(命令)を奉じて魏相等を斬り、天子を廃して霍禹を擁立します。
 
計画が決まりましたが、まだ実行する前に霍雲が玄菟太守に任命されました。
また、太中大夫任宣(『漢書儒林伝(巻八十八)』を見ると、任宣は霍光の外孫(娘の子)です。しかし『儒林伝』の顔師古注は「霍氏(霍光)の婿」としています)が代郡太守になりました。
この時、霍氏の陰謀が発覚しました。
 
秋七月、霍雲、霍山と范明友は自殺しました。
霍光夫人顕と霍禹、鄧広漢等は逮捕されます。
霍禹は要斬(腰斬)、夫人顕および娘達や兄弟は全て棄市に処されました。
霍氏に連坐して誅滅された者は数十家に及びます。
太僕杜延年も霍氏の旧人(旧知)として連座し、免官されました。

漢書儒林伝(巻八十八)』によると、代郡太守になったばかりの任宣も連座して誅殺されました。
この時、任宣の子任章は公車丞を勤めており、渭城界内に逃亡しました。夜、玄服(黒服)を着て廟に入り、宣帝が来たら暗殺しようとしましたが、発覚して処刑されました。

宣帝が詔を発しました「最近、東織室令史(『漢書帝紀』の注によると、当時は東西に織室があり、郊廟で着る刺繍した服を織っていました)張赦が魏郡の豪(豪族)李竟を使って冠陽侯霍雲に陰謀を報せ、大逆を為したが、朕は大将軍(霍光)を理由に(霍光の功績を想い)罪を抑えて公開せず、自新することを願った。ところが今回、大司馬博陸侯禹とその母宣成侯夫人顕および従昆弟(従兄弟)冠陽侯雲、楽平侯(『漢書帝紀』顔師古注によると、霍雲と霍山は霍去病の孫なので、霍禹の子の世代に当たります。『宣帝紀』は「従昆弟(従兄弟)」としていますが、転写の際、「子」の字が抜けてしまったようです。本来は「従昆弟の子」が正しいはずです)、諸姉妹の壻(婿)度遼将軍范明友、長信少府鄧広漢、中郎将任勝、騎都尉趙平、長安の男子馮殷等(『漢書帝紀の注によると字は「子都」です)が大逆を謀った。顕はこれ以前にも女侍医淳于衍を使い、共哀后(許皇后)に薬を進めて殺した。更に太子の毒殺を謀り、宗廟を危うくさせようとした。しかし逆乱不道は全てその辜(罪)に伏した。霍氏のために詿誤(そそのかされて過ちを犯すこと)したものの、吏(官吏)においてまだ発覚していない者は全て赦除(赦免)する。」
 
八月己酉(初一日)、皇后霍氏が廃されて昭台宮に住むように命じられました。
資治通鑑』胡三省注によると、昭台宮は上苑(上林苑)にあります。
 
漢書外戚伝上(巻九十七上)』によると、霍皇后は十二年後に雲林館に遷されて自殺し、昆吾亭の東に埋葬されました。
 
乙丑(十七日)、宣帝が詔を発し、霍氏の反謀を告発した男子張章、期門董忠、左曹楊惲、侍中金安上と史高を全て列侯に封じました。
楊惲は元丞相楊敞の子、金安上は元車騎将軍金日磾の弟の子、史高は史良娣(戾太子劉據の妻)の兄の子です。
 
以下、『漢書景武昭宣元成功臣表』と『外戚恩沢侯表』からです。
張章は霍氏の謀反を知って董忠に報告したため、博成侯に封じられました。諡号は分かりません。
董忠は張章の告発を楊惲に報告したため、高昌侯に封じられました。諡号は壮侯です。
楊惲は霍氏謀反の情報を金安上に報告したため、平通侯に封じられました。後に罪を犯して廃されるため、諡号はありません(宣帝五鳳二年56年参照)
金安上は霍氏謀反の情報を報告して変事を防いだため、都成侯に封じられました。諡号は敬侯です。
史高は悼皇考(宣帝の父劉進。宣帝元康元年65年参照)の舅(母の兄弟)の子で、侍中関内侯でしたが、霍氏の陰謀を告発したため楽陵侯に封じられました。諡号は安侯です。
 
漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』に戻ります。
霍氏が奢侈だった頃、茂陵の人徐生がこう言いました「霍氏は必ず亡ぶ。奢侈になったら不遜となり、不遜になったら上を侮るからだ。上を侮るのは道に逆らうことなので、人の右(上)にいたら衆が必ずこれを害する。霍氏は権力を握る日が久しいから、これを害す者は多いだろう。天下がこれを害し、しかも逆道を行うのだから、滅亡せずに何を待つのだ。」
そこで徐生が上書しました「霍氏が盛んになりすぎています(霍氏泰盛)。陛下がこれを愛して厚く遇すなら、時には抑制するべきです。亡に至らせるべきではありません。」
上書は三回されましたが、宣帝は採用しませんでした。
 
後に霍氏が誅滅され、霍氏を告発した者は皆、封侯されました。
ある人が徐生のために上書して言いました「臣はこういう話を聞きました。ある客が主を訪ねた時、竈(かまど)の煙突がまっすぐで、傍に薪が積まれているのを見ました。客が主人に言いました『煙突を曲げて薪を遠くに移すべきです。そうしなければ近々火患があるでしょう。』主人は黙ったまま何も言いませんでした。暫くして、果たして家で失火がありました。鄰里の者が共に助けたおかげで幸い収束します。そこで主人は牛を殺して酒を置き、鄰人に感謝しました。灼爛の者(火傷を負った者)は上行(上座)に坐り、他の者も功によって順に坐ります。しかし煙突を曲げるように勧めた者はその中にいませんでした。ある人が主人に言いました『もし客の言を聴いていたら、牛酒を費やすことなく、そもそも火患もなかったはずです。今、論功して賓客を招きましたが、曲突徙薪(煙突を曲げて薪を移すように勧めた者)に恩沢がなく、焦頭爛額(頭を焦がして額を焼いた者)を上客にするのですか?』主人は誤りを悟って(忠告した客を)招きました。今回、茂陵の徐福が数回上書し、近々霍氏に変事があるから防いで(陰謀を)絶たせるべきだと言いました。もし徐福の言う通りに行動していたら、国には裂土出爵(地を裂いて封侯すること)の出費がなく、臣にも逆乱誅滅の敗(失敗。禍)がありませんでした。往事は既に過ぎてしまいましたが、徐福だけがその功(賞)を蒙っていません。陛下の明察によって、徙薪曲突の策を貴んで焦髪灼爛の右(上)に置くことを願います。」
宣帝は徐福に帛十匹を下賜し、後に郎に任命しました。
 
宣帝が即位したばかりの時、高廟(高祖廟)を謁見し、大将軍霍光が驂乗(同乗)しました(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制の規定で大駕(皇帝の儀仗の一種)では大将軍が驂乗することになっていました)。宣帝は内心で非常に恐れて芒刺(草木の刺)が背にある時のように落ち着けませんでした。
後に車騎将軍張安世が霍光に代わって驂乗になると、宣帝は普段のままくつろぎ、気軽に親しめました。
霍光が死んで宗族が誅滅されてから、民間では「霍氏の禍は驂乗から生まれていた」と噂されました。
 
資治通鑑』の編者司馬光は霍氏誅滅に関してこう書いています。
(前略。宣帝は霍氏に)政事を任せて兵権を授け、事が溜まって対立が積もってから(事叢釁積)裁奪を加えた(権力を奪った)。だから霍氏は怨懼に至って邪謀を生むことになった。霍氏だけが自ら禍を招いたのだろうか。孝宣(宣帝)も醞釀醸造して陰謀を成させたのである。(略)顕、禹、雲、山の罪は確かに夷滅(族滅)に値するが、霍光の忠勳は祀らないわけにはいかない。それなのに家に噍類(生きた人)を居なくさせた。孝宣も少恩(薄情)というべきである。」
 
 
 
次回に続きます。