西漢時代196 宣帝(二十) 功臣封侯 前63年(1)

今回は西漢宣帝元康三年です。二回に分けます。
 
西漢宣帝元康三年
戊午 前63
 
[] 『漢書帝紀からです。
春、神爵(神雀。瑞鳥)がしばしば泰山に集まりました(または「止まりました」)
宣帝が諸侯王、丞相、将軍、列侯、二千石に金(黄金)を、郎従官に帛を下賜しました。序列によって数には差があります。
また、天下の吏に爵二級を、民に一級を下賜し、女子には百戸ごとに牛酒を与え、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りのない老人)高年(老齢者)には帛を与えました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、宣帝が詔を発しました「象(帝舜の弟)には罪があったが、舜はこれを封じたと聞いている。骨肉の親(親情)とは明らかであって絶つことができない(粲而不殊)。よって故(元)昌邑王賀を海昬侯に封じる。」
 
こうして劉賀は海昏侯になりました。
漢書王子侯表下』によると、劉賀は宣帝神爵三年(前59年)に死にます。
劉賀の素行が悪かったため、海昏侯国は廃されました。
しかし元帝が即位してから劉賀の子劉代宗を改めて海昏侯に封じました。諡号は釐侯といい、子孫に継承されます元帝初元三年・前46年参照)
 
尚、『漢書王子侯表下』では、劉賀は「四月壬子」に封侯されています。しかし『漢書帝紀』では丙吉の前に劉賀が封侯されており、またこの年の四月は癸亥朔なので壬子の日はないはずです。よって『王子侯表』の誤りです(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙未(初二日)、宣帝が詔を発しました「朕が微眇だった時(「身分が低かった時」。または「幼かった時」)御史大夫丙吉邴吉)、中郎将史曾と史玄、長楽衛尉許舜、侍中光禄大夫許延寿が皆、朕に旧恩を与え、故(元)掖庭令張賀が朕躬(朕の身)を輔導して文学経術を修めさせた。その恩恵は卓異であり、その功は盛んである。『詩(大雅抑)』は『報いない徳はない(無徳不報)』と言っているではないか。よって張賀が子とした弟の子(原文「所子弟子」。「所子」は養子にするという意味です。「所子弟子」は「張賀の養子で弟張安世の子」という意味になります)に当たる侍中中郎将張彭祖を陽都侯に封じ、張賀に諡を追賜して陽都哀侯とする。丙吉を博陽侯に、史曾を将陵侯に、史玄を平台侯に、許舜を博望侯に、許延寿を楽成侯に封じる。故人(旧知)で下は郡邸獄(宣帝が入れられていた獄)の復作(軽い刑に服している囚人)に至るまで、かつて阿保(保護養育)の功がある者は全て、官禄、田宅、財物を受領させる。それぞれ恩の深浅によって報いることにする。」
 
以下、『漢書外戚恩沢侯表』からです。
博陽侯丙吉は諡号を定侯といいます。
将陵侯史曾は諡号を哀侯といいます。史恭の子です。史恭は史良娣(宣帝の祖母。戾太子劉據の妻)の兄です。史曾の死後、後継者がいないため国が廃されました。
平台侯史玄は諡号を康侯といいます。史曾の弟です。
史曾と史玄には史高という兄がおり、宣帝地節四年(前66年)に楽陵侯に封ぜられました。
博望侯許舜は諡号を頃侯といいます。許皇后の父許広漢の弟に当たります。
楽成侯許延寿は諡号を敬侯といいます。許舜と同じく、許広漢の弟です。
許広漢は宣帝地節三年(前67年)に平恩侯に封ぜられました。
陽都侯張彭祖は諡号が分かりません。『漢書佞幸伝(巻九十三)』によると、劉彭祖は宣帝が外出する際、いつも参乗(同乗)し、愛幸(寵臣)と号されました。慎重な性格で自分を正すことができたため、失敗がありませんでしたが、最後は小妻(妾)に毒殺され、国を廃されました。
 
資治通鑑』に戻ります。
張賀には張覇という七歳の孤孫(親がいない孫)がいました。宣帝は散騎中郎将に任命して関内侯の爵位を下賜しました。
 
丙吉が封侯される直前に病を患いました。
宣帝は丙吉が起き上がれなくなるのではないかと心配し、生きているうちに侯位を与えるため、人を送って印紼(紼は印の紐です)を届け、その場で封侯しようとしました。
太子太傅夏侯勝がこう言いました「彼はまだ死にません。臣が聞くに、陰徳(隠れた徳)がある者は必ずその楽を享受して子孫に及ぼすことができるものです。今、丙吉はまだ報いを得ていないのに疾(病)がひどくなりました。これは死疾(死病)ではありません。」
果たして丙吉の病は快癒しました。
 
張安世は父子ともに封侯されて位が高くなりすぎていると考え、俸禄の一部を返上することにしました。
宣帝は詔を発して都内(『資治通鑑』胡三省注によると、都内は財物を管理する官です。大司農の属官に都内令と丞がいました)に張氏の無名の銭(名目が無い金。大臣官員が奉納した金銭)を単独で保管させました。その額は百万を数えます。
 
張安世は慎重かつ周到で、宣帝と共に大政(大事)を議論しても、決定するとすぐに病を報告する上書をして朝廷から退きました。正式に詔令を聞いてから驚いたふりをして吏(官吏)を丞相府に派遣し、決定された内容の詳細を問います。そのため朝廷の大臣は張安世が宣帝と討議したことを知りませんでした。
 
張安世がある者を推挙したことがありました。
推挙された者が張安世に会いに来て謝意を示します。すると張安世はとても後悔し、「賢才を挙げて能力がある者を薦めるのに(挙賢達能)、私謝(個人的な感謝)の必要があるというのか」と考えて交流を絶ってしまいました。
 
ある郎が功績はあるのに昇格できなかったため、自ら張安世に売り込みに行きました。
張安世はこう言いました「君の功が高いのは、明主も知っていることだ。人臣が執事するに当たって(職責を全うするにあたって)、何の長短があって自らそれを語るのだ(人臣が自分の長所を売り込むべきではない)。」
張安世はこの郎を推薦しませんでしたが、暫くして郎は昇格できました。
漢書張湯伝』で顔師古注が「張安世は外見上は拒否するふりをしたが実際は昇格させた」と解説しています。但し、あくまでも顔師古の推測です。
 
張安世は父子とも尊顕を得たため、心中で不安になりました。そこで子の張延寿のために京師から出して地方の官吏を補うことを請います。
宣帝は張延寿を北地太守に任命しました。
しかし一年余してから、宣帝は張安世が年老いたことを憐憫し、再び張延寿を招いて左曹太僕にしました。
太僕は正官で、左曹は加官(兼任の官)です。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月丙子(十四日)、宣帝が皇子劉欽を淮陽王に立てました。
 
 
 
次回に続きます。