西漢時代197 宣帝(二十一) 疏広 疏受 黄覇 前63年(2)

今回は西漢宣帝元康三年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
夏六月、宣帝が詔を発しました「前年夏、神爵(神雀)が雍に集まった(または「止まった」)。今春は、万を数える五色の鳥が属県(『漢書』の注によると三輔の諸県)に飛んで来て、(旋回)して舞い、木に集まろうとしたが(止まろうとしたが)まだ降りてこなかった。よって三輔に命じる。春夏に巣を取って卵を探したり、弾で飛鳥を射ってはならない。これらを全て法令とせよ(具為令)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
当時、皇太子劉奭は十二歳で、『論語』『孝経』に精通していました。
太傅疏広が少傅疏受(疏広の兄の子)に言いました「わしは『満足することを知っていれば辱しめられず、止まることを知っていれば危険に陥らない(知足不辱,知止不殆)』と聞いている(元は『老子』の言葉です)。今、仕宦して二千石に至り、官が成って(官職が高位になり)(名声)が立った。このようであるのに去らなかったら、恐らく後悔することになるだろう。」
即日、二人は上書して病と称し、骸骨(引退)を請いました。
宣帝はこれに同意し、黄金二十斤を下賜します。皇太子も黄金五十斤を贈りました。
公卿や故人(知人)が東都門外に帳を張って祖道(餞別として道の神を祀って宴を開く儀式)を設けました。二人を送りに来た者の車は数百輌に及びます。
沿道で二人を観た者は皆、「二大夫は賢人だ(賢哉二大夫)」と言い、嘆息して涙を流す者までいました。
 
疏広と疏受は故郷(『資治通鑑』胡三省注によると、東海蘭陵の人です)に帰ってから毎日、家の者に命じて金(黄金)を売らせ、宴席を設けました。族人、故旧(旧知)、賓客を招いて娯楽に興じます。
ある人が疏広に「金を使って子孫のためにいろいろな産業(事業)を立てるべきです」と勧めました。
すると疏広はこう言いました「わしが老誖(老齢で耄碌していること)のために子孫の事を考えていないというのか。わしの考えでは、以前から田廬(田地と家)があるから、子孫にはその中で勤力させれば、衣食を供給するに足り、凡人と同等にもなれる。今また(事業を)拡大して贏餘(余剰)を作ったら、子孫を怠墮にさせるだけだ。賢才があっても財が多かったらその志を損なわせ、愚才にして財が多かったらその過ちを増やすことになる。それに富者とは衆(大衆)の怨みとなるものだ。わしには子孫を教化できることがないから、更に子孫の過ちを増やして怨みを生ませるようなことは望まない。また、これらの金は聖主(陛下)が老臣を恵養するために使ったのだ。だから喜んで郷党、宗族と一緒に賞賜を享受し、わしの余日(余生)を尽きさせようとしているのだ。それもまた良いことではないか(不亦可乎)。」
族人は敬服して喜びました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
潁川太守黄霸は全ての郵亭や郷官に命じて雞(鶏)や豚を養わせ、鰥寡(配偶者を失った男女)や貧窮の者を救済しました。
資治通鑑』胡三省注によると、郵亭は書舍ともいい、文書を伝送する場所です。
郷官は郷の治所です。漢の制度では五家を伍といい、伍長が管理しました。二つの伍を什といい、什長が管理しました。十の什を里といい、里魁が管理しました。十の里を亭といい、亭長が管理しました。十の亭を郷といい、郷佐、三老、有秩、嗇夫、游徼が各一人いました。郷佐と有秩は賦税を担当し、三老は教化を担当し、嗇夫は争訟(訴訟)を担当し、游徼は姦非(犯罪)を担当しました。
 
黄覇は後に條教(法令。教令)を作りました。父老、師帥、伍長を置いて民間に普及させます。
善を為して姦悪を防ぐことや、耕桑に務めること、節約すること(節用)、財を増やすこと(殖財)、樹木を植えること(種樹)、畜養することを民に勧め、浮淫の費(中身のない出費。浪費)を除かせました。
黄覇の政治は煩雑として細かく(原文「米塩靡密」。米と塩が入り混じった様子)、初めは煩碎(細々として面倒なこと)でしたが、黄霸は精力を尽くして推行していきました。
黄霸が吏民と会った時は、会話の中から情報を探り出し、陰伏(隠し事)を問い正してそれぞれの案件の参考にしました。
黄覇は聡明で事象をよく把握していました。官吏はどうして黄覇が何でも把握できるのか分からなかったので、皆、神明と称え、些細な事でも偽ろうとしませんでした。
姦人は他の郡に移り、盗賊は日に日に減少します。
 
黄霸は教化に力を入れてから誅罰を与えました(教化しても従わない者に罰を与えました)。長吏の職務を成就させて安定を保つことに務めます。
許の県丞が年老いて聾を患ったため、督郵が黄覇に報告して排斥しようとしました。
資治通鑑』胡三省注によると、郡には郡督郵がおり、属県に分派されています。
 
報告を聞いた黄霸はこう言いました「許丞は廉吏だ。確かに年老いたが、まだ拝起(跪拝と起立。礼の一種)送迎はできる。重聴(聴力の悪化)がひどくても何も害はない。善く彼を助けるべきだ。賢者の意を失ってはならない(賢者を失望させてはならない)。」
ある人が許丞を留めた理由を問うと、黄霸はこう言いました「しばしば長吏を交替させたら、以前の者を送って新しい者を迎えるために費用がかかり、姦吏はこれ(長吏の交代)を機会に簿書(帳簿)を絶って(隠して)財物を盗むだろう。公私の費用の消耗が甚だ多くなるが、それらは全て民から出させることになる。それに、交替した新吏が必ずしも賢才だとは限らず、あるいは以前の者にも及ばないかもしれない。その結果、いたずらに混乱を増やすことになる。治道とは、特にひどい者を除くだけのことだ。」
黄霸は外寬内明(外は寛大で内は明察)だったため、吏民の心を得ることができました。戸口が年々増加して治績が天下第一となります。
 
宣帝は黄覇を朝廷に招いて京兆尹の職務を行わせました(守京兆尹。「守」は代理、試用の意味です)
しかし暫くして法に坐しました。
漢書循吏伝(巻八十九)』によると、黄覇は民を動員して馳道を修築した時、先に朝廷に報告しませんでした。また、騎士を動員して北方に向かわせた時、軍馬が士卒の数に足りなかったため、「乏軍興(軍事行動や物資の調達で時間を浪費すること。軍事行動の妨げとなる行動をすること)」の罪を弾劾され、続けて秩を削られました。
 
後に宣帝が詔を発して再び潁川太守に任命しました。本来、太守の秩は二千石ですが、罪を犯したため八百石のまま着任しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代198 宣帝(二十二) 羌族 前62年