西漢時代198 宣帝(二十二) 羌族 前62年

今回は西漢宣帝元康四年です。
 
西漢宣帝元康四年
己未 前62
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、宣帝が詔を発しました「朕が思うに耆老の人(耆は六十歳。老は七十歳です。併せて老人の意味です)は髪も歯も抜け落ち、血気が衰微し、暴虐の心もない。しかし今、ある者は文法(法律)に触れて囹圄(監獄)に拘執(拘置)され、天命を終えることができない。朕はこれを甚だ憐れむ。よって今後は、年が八十以上で、人を誣告した者と人を殺傷した者以外は全て罪を裁かないことにする(他皆勿坐)。」
 
[] 『漢書帝紀』からです。
文帝が大中大夫(姓氏は不明です)等十二人を派遣して天下を巡行させました。鰥寡(配偶者を失った男女)を慰問し、各地の風俗を観察し、吏治の得失を調べ、茂材(秀才)異倫(能力が傑出していること)の士を推挙させます。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
二月、河東の霍徵史等が謀反して誅されました。
 
漢書景武昭宣元成功臣表』に記述があります。
霍徵史とその子霍信、家監(家臣)廻倫(「廻」は「回」姓かもしれません)、元侍郎鄭尚が謀反を企んでいましたが、平陽大夫梁喜が告発したため失敗しました。
梁喜は合陽侯に封じられました。諡号は愛侯です。
 
霍光も河東平陽の人だったので、霍徵史は霍光の親族かもしれません。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
三月、宣帝が詔を発しました「最近、神爵(神雀)、五采(五彩の鳥)が万を数えて長楽、未央、北宮、高寝、甘泉の泰畤殿中および上林苑に集まった(または「止まった」)。朕は(能力が)いたらず、徳厚も少ないのに、しばしば嘉祥を得た。これは朕の任(責任。功績)ではない。よって天下の吏に爵二級を、民に一級を下賜し、女子には百戸ごとに牛酒を与える。加えて三老、孝弟(悌)力田の者に一人当たり二匹の帛を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りのない老人)にそれぞれ一匹を下賜する。」
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
右扶風尹翁帰が死に、家には余分な財産がありませんでした。
 
秋八月、宣帝が詔を発しました「翁帰は廉平郷正で(清廉公平で正道に励み)、民を治めて異等(優秀。突出していること)だった。よって翁帰の子に黄金百斤を下賜して祭祀を奉じさせる。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
宣帝が有司(官員)に命じて高帝時代の功臣の子孫で侯位を失っている者を探させました。
槐里の公乗爵位です。第八位に当たります)周広漢(周勃の子孫)等、百三十六人を探し出し、全てに黄金二十斤を下賜してその家を回復させ、代々絶えずに祭祀を行うように命じました。
 
漢書帝紀』では元康元年(前65年)に高皇帝の功臣である絳侯周勃等百三十六人の家を回復しており(既述)、本年は「功臣の適後(嫡後。跡を継ぐ子孫)に一人当たり二十斤の黄金を下賜した」としか書かれていません。
しかし『漢書高恵高后文功臣表』を見ると周勃を始め多くの功臣の子孫が本年(元康四年62年)に詔によって家を回復しています(詔復家)
恐らく『宣帝紀』が誤りで、本年に功臣の家を回復して黄金を下賜したはずです(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
丙寅(十一日)、大司馬・衛将軍・富平侯張安世(敬侯)が死にました。
 
漢書張湯伝』によると、張安世は病で倒れた時、上書して侯位の返上と引退を請いました。
しかし宣帝は同意せず、張安世の死後、子の張延寿に富平侯を継がせました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて丞相を勤めた扶陽侯韋賢(節侯)が死んだ時、長子韋弘は罪を犯して獄に繋がれていました。
 
漢書韋賢伝(巻七十三)』によると、韋弘は太常丞として宗廟を奉じて諸陵邑を管理していましたが、職務が複雑で責任が重かったため、多くの過失を犯しました。
父の韋賢は韋弘が後嗣になる立場にいるため、罪を問われる前に自ら官を退くように命じました。しかし韋弘は自ら官を辞めたら父の侯位を望んでいることになると考え、謙譲の心を抱いて官から去りませんでした。
やがて韋賢が病にかかって危篤に陥った時、韋弘は宗廟の事が原因で獄に繋がれてしまいました。
 
資治通鑑』に戻ります。
韋賢の家人は韋賢の命令を偽り、大河郡(『資治通鑑』胡三省注によると、元は済東国でしたが、国が廃されて大河郡になりました)の都尉を勤める次子の韋玄成を後継者にしました。
しかし韋玄成はそれが父の雅意(本意)ではないことを深く知っていたため、狂人の病を装い、便利(大小便)の中で寝たり、妄りに笑ったり話をして昏乱(昏迷)した姿を見せました。
 
韋賢の葬儀が終わってから、韋玄成が爵位を継ぐことになりましたが、狂乱を続けて朝廷の招きに応じませんでした。
大鴻臚がこの事を上奏したため、宣帝は章(上奏文)を丞相と御史に下して調査させました。
調査に当たった丞相史が韋玄成に書を送ってこう伝えました「古の辞譲(謙譲)は必ず文義(文章)によって観ることができたので、後世に栄誉を伝えられたのです。今、子(あなた)はただ容貌を壊し、恥辱を蒙って狂癡(狂痴)となりましたが、光曜(光彩)が暗いので(あなたの謙譲の美徳を)宣揚することはできません。子(あなた)が託すことになる名(あなたが得る美名)はとても小さなものです(微哉子之所託名也)。僕(私)は元から愚陋ですが、過分にも丞相の執事(実際の職務を行う官吏)となりました。少しでも風声(名声。韋玄成に関する良い評価)を聴くことを願います。そうでなかったら、恐らく子(あなた)は傷つき、僕(私)(あなたを逮捕する)小人になってしまいます。」
 
韋玄成の友人で侍郎の章(名が章。姓氏は不明です)が上書しました「聖王は国のために礼によって譲ることを貴ぶものです。玄成は優遇して養うべきであり、その志を折ってはなりません。衡門(一本の横木で作った門。貧しい家を指します)の下で自らを安んじさせる機会を与えるべきです。」
 
しかし丞相と御史は韋玄成が病を偽っていることを弾劾して宣帝に報告しました。
宣帝は詔を発して弾劾の必要はないと命じ、韋玄成を招いて爵位を受け入れさせます。
韋玄成はやむなく爵位を受け継ぎました。
宣帝は韋玄成の高節を称えて河南太守に任命しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
宣帝地節三年(前67年)に車師王烏貴が烏孫に奔りました。烏孫は烏貴を国内に留めます。
しかし漢が使者を送って烏孫を譴責したため、烏孫は烏貴を漢の宮闕長安に送りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝の時代に河西四郡(武威、張掖、酒泉、敦煌。元は匈奴昆邪王と休屠王の地です)が開かれ、羌と匈奴が通じる路を遮断しました。漢は諸羌を駆逐して湟中の地(湟水周辺の肥沃な地)に住めなくします。

宣帝が即位してから、光禄大夫義渠安国(義渠が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、戦国時代に秦に滅ぼされた義渠君の子孫が義渠を姓氏にしました)が使者として諸羌を巡りました。
先零羌族の一支)の豪(君長)が義渠安国に言いました「時々湟水を北に渡り、漢人が)農耕をしていない場所に民を逐って畜牧することを願います。」
資治通鑑』胡三省注によると、羌は南山を拠点としており、湟水を北に渡れば匈奴と合流できました。湟北は漢の地で、羌と匈奴の交通を遮っています。
 
義渠安国は先零の要求を朝廷に報告しました。
すると後将軍趙充国が義渠安国を「奉使不敬(使命を受けながら疎かにすること)」の罪で弾劾しました(義渠安国は先零の要求に同意したようです)
この後、羌人は前言を利用して、敢えて湟水を強引に渡るようになりましたが、漢の郡県はそれを禁止できませんでした。
 
かつて先零を始めとする諸羌種羌族は対立していましたが、この頃になると豪(君長)二百余人が互いに仇を解き、人質を交換し、盟を結んで誓いを立てました(盟詛)
それを聞いた宣帝が趙充国に意見を求めました。
趙充国が言いました「羌人を制しやすい理由は、それぞれの種(族)が自分の豪(君長)を持ち、しばしば互いに攻撃し合って一つになれなかったからです。三十余歳(年)前に西羌が反した時も、まず仇を解いて約を結び、令居を攻めて漢と対抗し、五六年経ってやっと平定できました武帝元鼎五年112年に西羌が反し、翌年に平定されました。五十年以上経っています。その後にも西羌が反したことがあったのかもしれません)匈奴はしばしば羌人を誘っており、共に張掖や酒泉の地を襲って羌をそこに住ませようとしています。最近、匈奴は西方で困窮しました(宣帝本始三年71年、匈奴が西域で敗れました)。今回の件は、匈奴がまた羌中に使者を送って互いに(同盟を)結ばせたのではないかと思われます。臣は羌の変がこれだけでは止まず、更に他種(他の部族)と聨結することを恐れます。そうなる前に備えを為すべきです。」
 
一月余経ってから、羌侯狼何が使者を匈奴に送って兵を借りました。
漢書趙充国辛慶忌伝(巻六十九)』によると、狼何は小月氏の一支のようです。
 
狼何は鄯善や燉煌敦煌を攻めて漢と西域を結ぶ道を絶とうとします。
趙充国はこう考えました「狼何が単独でこのような計を作ることはできない。匈奴の使者が既に羌中に入り、先零、、幵(全て羌族も仇を解いて約を結んだのではないか。秋になって馬が肥えたら必ず変が起きる。今の内に使者を派遣し、辺境の兵を巡視してあらかじめ備えを作り、敕(命令)を示して諸羌の仇を解かせないようにし、彼等の謀を暴くべきだ。」
 
両府(丞相府と御史府)がこれを宣帝に報告し、義渠安国を派遣して諸羌を巡視させました。羌族の善悪(漢の敵か味方か)を分別します。
 
[十一] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
この頃は連年豊作で(比年豊稔)穀物一石が五銭になりました。
 
 
 
次回に続きます。