西漢時代200 宣帝(二十四) 趙充国 前61年(2)

今回は西漢宣帝神爵元年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢の義渠安国が羌の地に入りました(前年参照)
義渠安国はまず先零諸豪(豪は羌族の長です)三十余人を集め、特に桀黠(「桀」は指示に従わず頑固なこと。「黠」は「悪」と同義です)な者を全て斬りました。
更に兵を放って種人(族種の人。ここでは羌人)を攻撃し、千余級を斬首しました。
その結果、漢に帰順していた諸羌や帰義羌侯楊玉等が怨怒し、漢を信用せず離反していきました。
漢に背いた羌族は小種(弱小の羌族を攻めて略奪し、漢の辺塞を侵し、城邑を攻め、長吏を殺しました。
 
義渠安国は騎都尉として騎兵二千(または「三千」)を指揮し、駐屯して羌に備えました。
しかし浩亹(『資治通鑑』胡三省注によると、浩亹県は金城郡に属します)に至った時、羌族の攻撃を受けて多数の車重(車や輜重)、兵器を失いました。
義渠安国は引き還して令居に至り、朝廷に報告します。
 
当時、趙充国は七十余歳でした。宣帝は趙充国の老齢を考慮し、丙吉を送って趙充国の代わりに誰を将とするべきか問わせました。
しかし趙充国は丙吉にこう答えました「老臣を越える者はいません。」
宣帝が再び使者を送って問いました「将軍が計るに、羌虜の状況は如何だ?どれだけの人が必要だ?」
趙充国が言いました「百聞は一見に及びません(百聞不如一見)。遠く離れて兵事を推測するのは困難です(兵難遥度)。臣は金城まで馳せて、地図を作って方略を提出することを願います。羌戎は小夷に過ぎないのに天に逆らって背畔(背反)しました。滅亡まで久しくありません。陛下が老臣に委ねることを願います。これを憂いとする必要はありません。」
宣帝は笑って「わかった(諾)」と言い、大軍を発して金城に向かわせました。
 
夏四月、宣帝が趙充国を派遣して大軍の指揮を命じました。西羌討伐が始まります。
 
漢書帝紀』はこの時の事をこう書いています。
「西羌が反したため、三輔と中都官(京師諸官府)の徒(囚徒)の刑を廃し(漢書帝紀』の注によると、長安には諸官の獄が三十六カ所ありました)、佽飛射士(佽飛は春秋時代・楚国の勇士です。人名が官名になりました)、羽林孤児(羽林は禁軍です。『漢書帝紀』の注によると、羽林は従軍して死んだ者の子を養い、五兵(五種類の武器)を教えました。これを羽林孤児といいます)から募った者、胡越の騎兵、三河、潁川、沛郡、淮陽、汝南の材官(歩兵。または予備兵)や金城、隴西、天水、安定、北地、上郡の騎士および羌騎を動員して金城に向かわせた。
夏四月、後将軍趙充国と彊弩将軍許延寿を派遣して西羌を撃たせた。」
 
漢書帝紀』では許延寿が趙充国と共に出征していますが、『資治通鑑』は『漢書趙充国辛慶忌伝(巻六十九)』に従っており、この時の出征は趙充国だけで、許延寿の出征は後の事としています。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、東方に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
趙充国が金城に至りました。兵が万騎を満たしてから渡河しようとしましたが、羌兵に妨害される恐れがあります。そこで夜のうちに三校(軍官)に枚(馬や兵が口に含む木の小板。声を出さないために使います)を噛ませて先に渡河させました(渡河したのは三人の軍官だけではなく、三校とそれぞれが率いる小部隊のはずです)
三校は河を渡ってすぐに陣営を構えました。
ちょうど空が明けたため、大軍も順に河を渡りました。
 
この時、羌族の数十百騎(数十から百騎)が出撃して漢軍の傍に出没しました。
趙充国が言いました「我が士馬は疲労しているから馳逐(駆逐)できない。それに、これ(羌兵)は全て驍騎で制すのが難しい上に、誘兵の恐れもある。虜を撃つなら殄滅(殲滅)を求めるべきだ。小利は貪るに足りない。」
趙充国は軍中に出撃を禁止させました。
但し騎兵を放って四望陿(峡谷の名)を偵察させました。峡谷の中には羌兵がいないと知ります。
夜、趙充国は兵を率いて落都(山の名)を登りました。
そこで諸校司馬を集めて言いました「わしは羌虜が兵を為せない(戦ができない)と知っていた。もし虜が数千人を発して四望陿の中を守杜(守って塞ぐこと)していたら、我が兵はどうして(落都に)入れただろう。」
 
趙充国は常に斥候を遠くまで派遣することを忘れず、行軍したら必ず戦闘に備え、止まったら必ず営壁を固くしました。非常に慎重で、しかも士卒を愛し、先に確実な計を練ってから戦います。
西に移動して西部都尉府(『資治通鑑』胡三省注によると金城にあります)に至ってからは、日々軍士に飲食をふるまったため、士は皆、趙充国に用いられることを欲しました。
 
羌兵がしばしば挑発しましたが、趙充国は堅守して戦おうとしませんでした。
やがて生口(捕虜)を得ました。捕虜の情報によると、羌豪(羌の族長)は頻繁に譴責し合い、互いにこう言っています「汝に背くなと言ったではないか。今回、天子(漢帝)が趙将軍を派遣してきた。年は八九十歳で善く兵を為す(用兵が得意だ)。今、一闘(一戦)を求めて死のうとしているが、可能だと思うか(趙充国は慎重で挑発に応じようとしないので、決戦を求めても無駄なことだ)。」
 
以前、と幵の豪(長)靡当児が弟雕庫を漢の都尉(金城の西部都尉府)に送って「先零が反しようとしています」と伝えました。
数日後、先零が反した時、雕庫の種人(同族の者)の多くが先零の中にいたため、都尉は雕庫を留めて人質にしました。
趙充国が来ると、雕庫を無罪と判断し、羌族に帰して種豪(各族の長)にこう告げさせました「大兵(漢の大軍)は罪がある者を誅殺する。(罪のない者は)自ら分かれて明白にせよ。共に滅ぼされる道を選ぶな。天子が諸羌人にこう告げた『法を犯した者でも互いに捕斬できれば罪を除き、功の大小によって額に差をつけて銭を下賜する(『資治通鑑』胡三省注によると、大豪で罪がある者を一人斬ったら銭四十万、中豪なら十五万、下豪なら二万、女子や老弱の者なら千銭を下賜することにしました)。また、(罪がある者の)妻子を捕えたり財物を奪った者には全てを与える。」
趙充国は威信によって、幵や劫略の者(武威に脅されて従っている者)を招降し、羌族の謀を瓦解させ、相手の疲労が極まったところを攻撃するという計を立てました。
 
当時、宣帝が内郡から動員して辺境に駐屯させた兵が六万人に達していました。
酒泉太守辛武賢が上奏しました「郡兵が皆、南山に屯備(駐軍して敵に備えること)しており、北辺が空虚になっています。この情勢を久しくさせてはなりません。もし秋冬が来てから兵を進めるとしたら、それは虜が境外に居る時に採るべき册(策)です(秋の収穫を待って遠征するのは敵が遠くにいる時の策です)。今、虜は朝夕に寇しており(辺境を侵しており)、土地が寒苦なので、漢馬は冬に耐えられません(土地が寒冷で痩せているので、辺境に駐留している数万の漢馬は冬を越えられません)(寒くなる前に)七月上旬に三十日の糧を携帯し、張掖、酒泉から分かれて兵を出し、鮮水の辺にいる、幵を共に撃つべきです。たとえ全て誅滅できなくても、その畜産を奪って妻子を捕虜にすることはできます。兵を還して冬になってからまた撃てば、大兵が頻繁に出撃する様子を見て、虜は必ず震壊(震撼)します。」
辛武賢の辛氏について『資治通鑑』胡三省注から紹介します。夏王啓が支子(嫡子以外の子)を莘に封じました。「莘」は「辛」に近いため、子孫が辛氏を名乗りました。漢初には申蒲(恐らく「辛蒲」の誤り)という者がおり、趙魏の名将でした。後に隴西に家を移してから隴西人になりました。周代には太史辛甲がいました。
 
宣帝は辛武賢の書を趙充国に見せて議論させました。
趙充国はこう考えました「一頭の馬に自分の三十日分の食糧を背負わせたら、米二斛四斗、麦八斛になります。更に衣装、兵器もあるので、(羌兵を)追逐するのは困難です。虜は必ず我が軍の進退にかかる時間を推測し、わずかに撤退して水草を逐い、山林に入るでしょう。(我が軍が)それに従って深入りしたら、虜は前険を拠点とし、後阨(後ろの隘路)を守って糧道を絶つので、必ず傷危(殺傷危機)の憂が生まれ、夷狄に笑われることになり、(その恥辱は)千載(千年)経っても報復できません。武賢はその畜産を奪って妻子を捕えられると思っていますが、これは空言(虚言)に近く、至計(最善の計)ではありません。
先零が真っ先に畔逆(叛逆)を為し、他種(他の族)は劫略(脅迫)されているだけです。よって臣の愚册(愚策)によるなら、、幵の闇昧(無知)な過ちを棄て(無知な、幵が犯した罪は相手にせず)、それを隠して公にせず、まず先零の誅を行って彼等を震動させ、過ちを悔いて善に返らせるべきです。その後、彼等の罪を赦し、良吏でその俗を理解している者を選択して、撫循和輯(和睦)させます。これが軍を守って勝利を保証し、辺境を安定させる策(全師保勝安辺之册)です。」
 
 
 
次回に続きます。