西漢時代210 宣帝(三十四) 楊惲失脚 前56年

今回は西漢宣帝五鳳二年です。
 
西漢宣帝五鳳二年
乙丑 前56
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、宣帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祀を行いました。
 
[] 『漢書帝紀からです。
三月、宣帝が雍を行幸して五畤を祀りました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月己丑、大司馬車騎将軍韓増が死にました。
漢書魏豹田儋韓王信伝(巻三十三)』によると諡号は安侯です。
 
五月、将軍許延寿を大司馬車騎大将軍にしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丞相丙吉は年老いていましたが、宣帝は尊重していました。
しかし蕭望之がしばしば丙吉を軽んじたため、宣帝は喜びませんでした。
 
丞相司直(『資治通鑑』胡三省注によると繁延寿です)が蕭望之を弾劾しました。丞相に対する礼節が倨慢(傲慢)で、しかも吏に売買を行わせて秘かに得た利益が十万三千銭に及んだという内容です。丞相司直は蕭望之を逮捕して罪を裁くように請いました。
 
秋八月壬午(初二日)、宣帝が詔を発して蕭望之を太子太傅に左遷しました。
太子太傅黄霸が代わって御史大夫になります。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
秋八月、宣帝が詔を発しました「婚姻の礼とは人倫の大者(大事)である。酒食の会は礼楽を行うためにある。今、郡国二千石(郡守や国相)の中には、勝手に苛禁(苛酷な禁令)を為し、民が嫁娶(結婚)する時に、酒食を具えて互いに賀召(祝賀接待)することを禁止している者がいる。そのため郷党の礼が廃され、民に楽しみを失わせている。これは導民の方法ではない。『詩(小雅伐木)』にはこうあるではないか『民が徳を失ったら、乾餱(干飯)でも愆(過ち)を招く(民が情義を失ったら、干飯のようなものでも怨恨の原因になる。原文「民之失徳,乾餱以愆」)。』よって苛政を行ってはならない。」
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
匈奴では呼韓邪単于、屠耆単于、車犁単于が並立しています。
 
呼韓邪単于が弟の右谷蠡王等を西に派遣し、屠耆単于の屯兵を撃たせました。一万余人を殺略します。
これを聞いた屠耆単于は自ら六万騎を率いて呼韓邪単于を撃ちました。しかし屠耆単于は敗れて自殺しました。
都隆奇は屠耆単于の少子に当たる右谷蠡王姑瞀楼頭と共に逃走して漢に帰順しました(それぞれの単于が自分の王を封じたため、呼韓邪単于の弟も屠耆単于の少子も右谷蠡王を称していました)
 
車犂単于は東に向かって呼韓邪単于に降りました。
 
冬十一月、呼韓邪単于の左大将烏厲屈とその父匈奴の官号)烏厲温敦が匈奴の乱を見て、その衆数万人を率いて漢に降りました。
漢は烏厲屈を新城侯に、烏厲温敦を義陽侯に封じました。
以上は『資治通鑑』の記述で、『漢書匈奴伝下(巻九十四下)』に基いています。
漢書帝紀』では「匈奴単于が衆を率いて来降し、列侯に封じた」としています。
また、『漢書景武昭宣元成功臣表』には「信成侯王定。匈奴烏桓屠驀単于の子で、左大将軍として衆を率いて降った」、「義陽侯厲温敦。匈奴謼連累単于として衆を率いて降った」とあります。
新城侯に封じられた左大将烏厲屈は「信成侯王定」となっており、匈奴烏桓屠驀単于の子です。
烏厲温敦の呼累は「謼連累単于」となっています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「(烏厲温敦は)単于になっていないが、あるいは投降する時に単于を自称したのかもしれない。またあるいは本紀と年表の二者とも誤りかもしれない」と解説しています。
尚、『漢書景武昭宣元成功臣表』によると、信成侯王定(烏厲屈?)が封侯されたのは五鳳二年(本年)九月癸巳で、烏厲温敦が封侯されたのは五鳳三年(翌年)二月甲子の事です。
 
当時、李陵の子がまた烏藉都尉を単于に立てました。
しかし呼韓邪単于がこれを捕えて斬ります。
こうして呼韓邪単于が再び単于庭を都にしました。但しその衆は数万人しかいません。
 
屠耆単于の従弟休旬王が匈奴の西辺で自立して閏振単于となり、呼韓邪単于の兄に当たる左賢王呼屠吾斯も東辺で自立して郅支骨都侯単于になりました(呼屠吾斯はかつて民間におり、宣帝神爵四年58年に呼韓邪単于によって左谷蠡王に立てられました。その後、左賢王に昇格したようです)
匈奴はまた三単于が並立することになりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
光禄勳平通侯楊惲は廉潔無私でしたが、その行いや能力を誇り、また性格が刻害(酷薄残忍)で他者の陰伏(隠し事)を暴露するのが好きだったため、朝廷の多くの人に怨まれていました。
ある人が上書して太僕戴長楽の罪を告発したことがありました。
戴長楽は楊惲と仲が悪かったため、楊惲が人を使って告発させたのだと思い、上書して楊惲の罪を訴えました「以前、惲が上書して韓延寿の冤罪を訴えたので、郎中丘常が惲に問いました『君侯が韓馮翊のために訴えたと聞きましたが、活かせることができますか?』惲はこう答えました『この事はどうして容易にできるだろう。脛脛の者(真直ぐな者)が全うできるとは限らない。私も自らを保つことはできないだろう(自分を保つこともできないのだから、人を助けるのは無理だろう)。真に人が言う「鼠が穴に入れないのは、くわえている物が多すぎるからだ(鼠不容穴,銜窶数)」というものだ。』
また長楽(私)にこう言いました『正月以来、天が曇っているのに雨が降らない(天陰不雨)。これは『春秋』に記されており、夏侯君も言ったことだ。』」
夏侯君は夏侯勝を指します。夏侯勝はかつて昌邑王を諫め、「天が久しく曇って雨が降らなかったら、臣下の中に必ず上を謀ろうとしている者がいます」と言いました(昭帝元平元年74年参照)
 
戴長楽の訴えは廷尉に下されました。
廷尉于定国は楊惲が怨望によって訞悪(妖悪)の言を為しており、大逆不道の罪に当たると上奏しました。
宣帝は誅を加えるのが忍びず、詔を発して楊惲と戴長楽の職を免じ、二人とも庶人にしました。
 
漢書帝紀は本年十二月に「平通侯楊惲が光禄勳だった時の罪に坐し、罷免されて庶人になった。その後、過ちを悔いず、怨望を抱いたため、大逆不道によって要斬(腰斬)に処された」としています。
荀悦の『前漢孝宣皇帝紀(巻第二十)』でも、『漢書帝紀』に従って本年に楊惲が処刑されています。
しかし楊惲は処刑される前に孫会宗に書を送っており、その中で「臣が罪を得て既に三年(足掛け)が経った」と言っています(宣帝五鳳四年54年に述べます)
また、ちょうど日食があったため、過ちを悔いない楊惲に日食の原因があると見なされて処刑されました。この日食は宣帝五鳳四年(前54年)四月辛丑朔の日食を指すはずです。
よって『宣帝紀』は誤りで、楊惲は本年に光禄勳を罷免されますが、処刑されるのは宣帝五鳳四年(前54年)の事です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代211 宣帝(三十五) 黄覇 前55年