西漢時代211 宣帝(三十五) 黄覇 前55年

今回は西漢宣帝五鳳三年です。
 
西漢宣帝五鳳三年
丙寅 前55
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月癸卯(二十六日)、博陽侯丙吉(定侯)が死にました。
 
二月壬辰(中華書局『白話資治通鑑』は「壬辰」を恐らく誤りとしています)御史大夫黄霸が丞相になりました。
 
黄霸の才能は治民において長けており、丞相になってからの功名は郡を治めていた頃よりも劣りました(黄覇は潁川太守としての業績を認められて中央に招かれ、太子太傅を勤めた後、前年、御史大夫になり、今回丞相に昇進ました)
 
当時、京兆尹張敞の舍(家)の鶡雀(鳥の名)が飛んできて丞相府に止まりました。
黄霸はこれを神雀だと思い、宣帝に上奏しようとして議論しました。
 
張敞が黄霸の事を上奏しました「臣が見たところ(竊見)、丞相が中二千石、博士に請い、民のために利を興して害を除き、大化を成したことを、郡国から上計(財務や戸籍などの報告)に来た長史や守丞に雑問させ、一つ一つ答えさせました(丞相の指示で中二千石の官員や博士が郡国の長史や守丞に治政の状況を問いました)(長史や守丞の中で)耕者(農民)が畔(あぜ。田地)を譲り、男女が路を異とし(男女が別々に歩き)、道に落ちている物を拾っても自分の物としない(道不拾遺)といった成果があり、更に孝子や貞婦(の名と数)を挙げた者は一輩(一等)とし、先に上殿させました(丞相府の殿です。宮中ではありません)(孝子や貞婦を)挙げたものの人数(具体的な人名と数)を知らなかった者は次にしました。條教(教令)を為さなかった者は後にされ、叩頭して謝しました。丞相は口では何も言いませんでしたが、心中では彼等もそう為すことを欲していました(心中では成績が悪い官員も成果を出すことを欲していました。原文「心欲其為之也」)。長史や守丞が答えている時、臣敞の舍(家)の鶡雀が飛び去って丞相府の屋根の上に止まりました。丞相以下、それを見た者は数百人います。辺吏の多くは鶡雀というものを知っていましたが、(丞相が)これを問うと、皆、知らないふりをしました。そこで丞相は上奏することを図って議論し、『臣が上計に来た長史、守丞に教化を興している状況を一つ一つ問うていると、皇天が報いて神爵を下しました』と報告することにしました。ところが後に臣敞の舍から来たと知ったので中止しました。郡国の吏は秘かに『丞相は仁厚で知略があるのに、奇怪な事を微信(わずかに信じること)している』と思って笑っています。
臣敞は敢えて丞相を誹謗するのではありません。群臣が報告しなくなることを誠に恐れるのです。長史や守丞は丞相の譴責を畏れるので、帰ってから法令を棄ててそれぞれ勝手に教化を行い、その結果、政務が増加し(務相増加)、純粋質朴な風気が失われ(澆淳散樸)、偽った様相が横行し(並行偽貌)、名はあっても実がなく(有名亡実)、動揺して怠惰になり(傾搖解怠)、ひどい者は妖(姦悪)を為すことになります。例えば京師が率先して讓畔(田地を譲ること)、異路(男女が分かれて歩くこと)、道不拾遺(道に落ちている物を着服しないこと)を行ったとしても、実際には廉貪・貞淫の行いに対して益はなく、逆に天下に先行して偽(虚偽)を為させることになるので、このようにするべきではありません(固未可也)。諸侯が先にこれらの事を行い、偽声(偽の名声)が京師を越えるのも(または「京師に届くのも」。原文「偽声軼於京師」)、細事(小事)ではありません。漢家は敝(秦の弊害)を継承して通変(改革)し、律令を制定してきました。これは善を勧めて姦を禁じるためであり、條貫(条例。体系)は既に詳しく備わっているので、これ以上加えるべきではありません。貴臣(尊貴な臣)に命じて長史、守丞に明飭(訓示)させ、(長史、守丞が)帰ったら二千石(郡国の長)に報告し、三老、孝弟(悌)、力田、孝廉、廉吏を挙げる際には必ず適切な人を選ばせ、郡事は全て法令を検式(法式。制度。根拠)とし、勝手に條教(教令)を作らせず、敢えて詐偽(虚偽)を用いて名誉を求める者は必ず先に戮を受けさせ、こうすることで好悪(善悪)を正して明らかにするべきです。」
宣帝はこの意見を嘉して採用しました。上計の吏を召し、侍中に命じて張敞の建議に基いた訓示を伝えさせます。
黄霸は深く恥じ入りました。
 
楽陵侯史高(史恭の長子。史恭は宣帝の祖母・史良娣の兄です)が外属外戚旧恩によって侍中となり、宣帝に貴重されていたため、黄霸が史高を太尉に推挙しました。
宣帝が尚書を送って黄霸を召し、こう問いました「太尉の官は廃されて久しい(『資治通鑑』胡三省注によると、文帝が太尉の官を廃した後、景帝が周亜夫を太尉にしましたが、また廃されました。武帝が田蚡を太尉にしましたが、田蚡の後に太尉になった者はいません)。教化を宣明し、幽隠に通達し(隠れた状況にも通じて明らかにし)、獄に冤刑がなくなり、邑に盗賊がいなくなるようにするのが君の職だ。将相の官(任官)は朕の任である。侍中楽陵侯高は帷幄の近臣であり、朕が自ら親しんでいる。君はなぜ職を越えて彼を推挙するのだ?」
宣帝は尚書令に丞相の回答を受けさせました。黄霸は冠を脱いで謝罪し、数日後にやっと罪を免れます。
資治通鑑』胡三省注によると、尚書令は秦代から継承された官で、武帝が宦者を用いて中書謁者令にしました尚書令と中書令は別の官という説もあります)。成帝の時代になって再び士人を用いるようになります。
宣帝は尚書を送って黄霸を召し、質問をしたので、尚書令に回答を受けさせました。
 
黄覇はこの一件があってから建議をしなくなりました。
このように黄覇は丞相としての能力には不足がありましたが、漢が興きてから民吏を治めるという点においては、黄霸が最も優れていました。
 
尚、胡三省は宣帝の言葉についてこう書いています「丞相の職とは百官を統率し、賢人を進めて不肖の者を退けることである。黄霸が史高を推挙した事に対して、推挙した人物が相応しくなかったというのなら問題ないが、職を越えたというのは誤りである。武帝以来、丞相が職権を失って久しい。」
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、宣帝が河東を行幸して后土を祀りました。

宣帝が詔を発しました「以前は匈奴がしばしば辺寇を為し(辺境を侵し)、百姓がその害を被ったが、朕は至尊を継承したのに、まだ匈奴を綏安(安定)できなかった。その後、虚閭権渠単于が和親を請い求めたが病死し、右賢王屠耆堂が代わって立ったが、骨肉の大臣は虚閭権渠単于の子を呼韓邪単于に立て、屠耆堂を撃殺した。匈奴では)諸王が並んで自立し、五単于に分かれて更に攻撃し合い、死者は万を数え、畜産は十分の八九を大耗(損耗)し、人民は飢餓に苦しみ、互いに燔燒(焼くこと)して食を求め、大乖乱(大動乱)に陥っている。
単于閼氏の子孫昆弟(兄弟)および呼遬累単于、名王、右伊秩訾、且渠、当戸以下が衆五万余人を率いて投降し、義に帰した(前年)単于は臣と称し、弟に珍(珍宝)を奉じて正月を朝賀させた。北辺が晏然(安寧)になり、兵革の事(戦事)がなくなった。そこで朕は身を正して斎戒し(飭躬斎戒)、上帝を郊祭し、后土を祀った。すると神光が並んで現れ、あるいは谷から興り、斎宮を燭燿して(輝き照らして)十余刻に及んだ。甘露が降って神爵(神雀)が集まった(または「神爵が止まった」)(これらの事は)既に有司(官員)に詔を下して上帝、宗廟に告祠(報告の祭祀)させた。
三月辛丑、鸞鳳がまた長楽宮東闕の中の樹の上に集まり(止まり)、下に飛んで地に止まった。文章(鸞鳳の模様)は五色あり、十余刻留まったのを吏民が共に観た。朕は不敏(愚鈍)なので任を全うできないことを懼れているが、しばしば嘉瑞を蒙り、これらの祉福(「祉」は「福」と同義です)を獲た。『書(『漢書帝紀』の注によると、『尚書呂刑』の言葉が元になっています)』にはこうあるではないか『美があっても美とせず(褒賞があったとしても自分の功績に満足せず)、尽職して怠らない(雖休勿休,祗事不怠)。』公卿大夫は自ら勉めよ。天下の口銭(七歳から十四歳の民が課す人頭税を減らし、殊死(死刑)以下(死罪は含まれません)を赦す。民に爵一級を、女子には百戸ごとに牛酒を下賜する。五日間、大酺(国を挙げた大宴)を行い、加えて鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)高年(高齢者)に帛を下賜する。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
六月辛酉(十六日)、西河太守杜延年が御史大夫に任命されました。
 
荀悦の『前漢孝宣皇帝(巻第二十)』は「六月辛巳」の事としていますが、『漢書百官公卿表下』は「六月辛酉」としています。『資治通鑑』胡三省注によると、「長暦」ではこの月の朔は丙午なので、辛巳はありません。よって『前漢紀』が誤りです。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
西河と北地に属国を置き、匈奴の降者を住ませました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
広陵劉胥(厲王。武帝の子)が巫の李女須(女須が名)を使って皇帝を呪詛し、自分が天子になることを求めました。
しかし事が発覚したため、口封じのために巫および宮人二十余人を毒薬で殺しました。
公卿が劉胥の誅殺を請いました。
 
 
 
次回に続きます。