西漢時代212 宣帝(三十六) 耿寿昌 前54年

今回は西漢宣帝五鳳四年です。
 
西漢宣帝五鳳四年
丁卯 前54
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
春、広陵劉胥(前年参照)が自殺しました。
 
漢書武五子伝(巻六十三)』によると、宣帝は恩を加えて劉胥の諸子を全て庶人としました。劉胥には厲王という諡号を贈ります。
劉胥は在位六十四年で死に、国が廃されました。
しかし元帝の時代になってから、劉胥の太子劉霸が再び広陵王に立てられます。これを孝王といいます元帝初元二年47年参照)
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
匈奴単于が漢に対して臣と称し、弟の右谷蠡王を入侍(入朝して仕えること)させました。
漢は辺塞の寇(戦災)がなくなったため、戍卒の十分の二を減らしました。
 
翌年にも呼韓邪単于が臣と称して銖婁渠堂を漢に入侍させます。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「当時、匈奴には三単于(呼韓邪単于、郅支単于、閏振単于がおり、この年に臣と称したのがどの単于かはわからない」と注釈しています。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
大司農中丞耿寿昌が上奏しました「豊作の年が続いているので(歳数豊穰)穀物の値が下がって(穀賎)農人の利が少なくなっています(『資治通鑑』胡三省注によると、当時は穀物一石が五銭にしかならなかったため、農民の害となっていました)。前例では、毎年、関東の穀四百万斛を漕(水運)して京師に運び、そのために卒六万人を使いました。(最近は豊作なので)三輔、弘農、河東、上党、太原郡の穀物を買い入れるべきです。(これらの地域の穀物だけで)京師への供給は足り、関東漕卒の過半を省くことができます(民の徭役を軽減できます)。」
宣帝はこの計を採用しました。
 
耿寿昌がまた言いました「辺郡に命じて全ての地に倉を築かせ、穀物の値が下がった時は値段を上げて買い入れ(穀賎時増其賈而糴)穀物の値が上がった時は値段を下げて売り出すべきです(穀貴時減賈而糶)。これを常平倉と名づけます。」
耿寿昌の進言が採用され、民が益を蒙りました。
宣帝は詔を下して耿寿昌に関内侯の爵位を下賜しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月辛丑朔、日食がありました。
 
宣帝が詔を発しました「皇天が異(異変)を示し、朕の躬(身)を戒めた。これは朕の不逮(能力が及ばないこと)と吏の不称(職責を全うしないこと)が原因である。以前、使者を送って民が疾苦としていることを問わせたが、また丞相御史の掾二十四人を派遣して天下を循行させる。冤獄を挙げ、勝手に苛禁(苛酷な禁令)を為して深刻で(法が厳しくて)改めない者を監察せよ。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
楊惲は爵位を失ってから(宣帝五鳳二年56年参照)、家に住んで産業を治め、財を為すことを楽しみとしました。
友人の安定太守西河の人孫会宗が楊惲に書を送り、諫めてこう伝えました「大臣が廃されて退いたら、門を閉じて惶懼(恐れ入ること)し、可憐の意と為すべきだ(憐れな姿を示すべきだ)。産業を治め、賓客と通じ、称誉(称賛名誉)があるのは相応しくない。」
 
楊惲は宰相楊敞の子で、材能(才能。能力)があり、若い頃から朝廷で頭角を現していましたが、一朝にして晻昧(曖昧)な言葉が原因で廃されたため、内心不服でした。
そこで孫会宗に書を送ってこう答えました「私は自ら思念したが、犯した過ちが大きく、行いを損なったので、常に農夫として世(一生)を終えることになった。だから自ら妻子を率いて耕桑に尽力しているのに、またこのような譏議を用いられるとは思わなかった(批難されるとは思わなかった)。人の情が止められないことは、聖人でも禁止できないものだ。だから君や父が至尊であり、至親であったとしても、その終わりを送る際は、期限があって止むものだ(主君が至尊で父親が至親であったも、喪に服す期間には限りがあるものだ)。臣が罪を得て既に三年になる(君主や父の喪も三年で終わります)。田家で辛苦し、歳時(毎年)伏臘(伏は夏の最も暑い期間で三伏といいます。臘は年末の祭祀です)では羊を煮て子羊を炙り(烹羊炰羔)、一斗の酒で自らを労い、酒の後に耳が熱くなったら(酔いがまわったら)、天を仰いで缶(瓦器。打楽器)を打ちながら歌っている(原文「拊缶而呼烏烏」。かつては秦人が缶を叩きながら歌を歌いました。関中の風俗です)。その『詩』はこうだ『かの南山で田を耕し、蕪穢(荒廃。雑草が生えること)して治めない。一頃(「頃」は面積の単位)の豆を植えたが、全て落ちて萁(豆の茎)だけになる。人生は遊楽を行うだけだ。いつまで待てば富貴を得られるのだろう(田彼南山,蕪穢不治。種一頃豆,落而為萁。人生行楽耳,須富貴何時)。』誠に荒淫で限度がないとしても、それが悪いことかどうかは知らない(私はこのようにしていてもいいと思っている)。」
資治通鑑』胡三省注を元に詩の解説をします。山は高く南は「陽」を指すので、「南山」は帝王を指します。「蕪穢」は朝廷が乱れていることの比喩です。豆の茎は曲がりくねっているので、朝廷には阿諛讒言の佞臣しか残されていないことを風刺しています。
 
楊惲の兄の子にあたる安平侯楊譚(楊惲の兄は楊忠といい、父楊敞から安平侯の爵位を継ぎました。楊忠の死後は楊譚が継ぎました)も楊惲に言いました「侯(あなた)の罪は薄く(軽く)、功もあるので(霍氏の謀反を告発しました)、暫くしたらまた用いられるでしょう。」
しかし楊惲はこう言いました「功があるからといって何の益がある。県官(皇帝)のために尽力するには足りない。」
楊譚が納得して言いました「県官は確かにその通りです。蓋司隸(蓋寬饒)と韓馮翊(韓延寿)は皆、尽力した吏だったのに、共に事に坐して誅されてしまいました。」
 
ちょうどこの頃、日食の異変がありました(前述)
騶馬猥佐(馬を養う下級官吏)(成は名。姓氏は不明です)が上書しました「惲は驕奢で過ちを悔いていません。日食の咎は彼がもたらしたのです。」
上奏文は廷尉に下されました。
調査の結果、楊惲が孫会宗に送った書が発見されました。それを読んだ宣帝は楊惲を憎みます。
廷尉は楊惲を大逆無道の罪とみなし、要斬(腰斬)に処しました。
楊惲の妻子は酒泉郡に遷され、楊譚も連座して庶人に落とされます。
楊惲と仲が良かった在職中の官員も連座し、未央営尉韋玄成や孫会宗等が官を免じられました。
 
資治通鑑』の編者司馬光はこう言っています「孝宣(宣帝)の明があり、魏相や丙吉が丞相になり、于定国が廷尉になったのに、趙趙広漢)(蓋寬饒)(韓延寿)(楊惲)の死はどれも衆心(民心)を満足させることができなかった。これは善政における大きな過失である(善政之累大矣)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴閏振単于がその衆を率いて東の郅支単于を撃ちました。
しかし郅支単于は閏振単于と交戦して殺し、その兵を吸収して更に呼韓邪単于を攻撃しました。
呼韓邪単于の兵は敗走し、郅支単于単于庭を都にしました。
 
郅支単于は呼屠吾斯といい、かつては民間にいましたが、宣帝神爵四年(前58年)に呼韓邪単于によって左谷蠡王に立てられました。その後、左賢王に昇格しましたが、宣帝五鳳二年(前56年)に自ら郅支単于に立ちました。
資治通鑑』胡三省注は「郅支は呼韓邪による樹立の恩を忘れ、兄弟でありながら干戈(戦争)を求めた。(後に)漢に誅殺されるが、当然である(宜矣)」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。

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