西漢時代217 宣帝(四十一) 宣帝中興 前50~49年

今回は西漢宣帝甘露四年と黄龍元年です。
 
西漢宣帝甘露四年
辛未 前50
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
広川王劉海陽には禽獣の行いがあり、不辜(無罪)の者を殺戮しました。
夏、劉海陽が罪に坐して王位を廃され、房陵に遷されました。
 
広川王は宣帝地節四年(前66年)に劉文(戴王)が立てられました。劉文は広川恵王劉越(景帝の子)の孫です。
劉文の死後、子の劉海陽が継ぎました。以下、『漢書景十三王伝(巻五十三)』からです。
劉海陽は部屋に男女が裸で交接する姿を描き、酒宴に諸父(叔伯父)や姉妹を招いて酒を飲みながら絵を仰ぎ見させました。
また、劉海陽の妹は既に人の妻になっていたのに、劉海陽は自分の幸臣と妹を姦通させました。
更には従弟の劉調等と共に、ある家族の三人を殺しました。
そのため、罪に坐して房陵に遷され、国が廃されました。
 
尚、『漢書帝紀』『漢書景十三王伝』および『資治通鑑』は「劉海陽」としていますが、『漢書諸侯王表』では「劉汝陽」です。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月丁卯、未央宮宣室閣で火災がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、定陶王(宣帝の子)を楚王に遷しました。
 
[四 『資治通鑑』からです。
呼韓邪と郅支の両単于匈奴から使者を送って漢に朝献しました。
漢は呼韓邪単于の使者を優遇しました。
 
 
 
西漢宣帝黄龍元年
壬申 前49
 
漢書帝紀』の注を見ると、応東漢の人。『漢書』の注者)が「以前(宣帝甘露元年53年)黄龍が新豊に現れたので改元した」と解説していますが、顔師古は「本年二月に黄龍が広漢郡に現れたので改元したと」いう説を紹介しており、新豊に黄龍が現れてから足掛けで五年も経っているので、応劭の説は誤りと判断しています。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、宣帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祀しました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴呼韓邪単于が来朝しました。礼賜儀礼と賞賜)は始めて朝見した時と同等にしました。
二月に単于が帰国しました。
 
郅支単于は、呼韓邪単于が漢に降ったのは兵力が弱いからで、自力では帰って来れないと考え、衆を率いて西に向かい、匈奴右地(西部)を占領しました。
 
屠耆単于の小弟はかつて呼韓邪単于に仕えていましたが、右地に逃走し、二人の兄(屠耆単于と閏振単于の余兵を集めて数千人を得ました。そこで自立して伊利目単于(または「伊利自単于」)と称します。
ところが伊利目単于は道中で郅支単于に遭遇し、合戦して殺されました。郅支単于はその兵五万余人を吸収します。
 
郅支単于は漢が兵と食糧を出して呼韓邪単于を助けたと聞き、右地に留まって住みました。
しかし自分の力が匈奴を安定させるには足りないと判断し、更に西に移動して烏孫に近づきました。
烏孫と協力して漢に対抗しようと考え、小昆彌烏就屠に使者を送ります。
烏就屠はまず使者を殺し、八千騎を動員して郅支単于を迎え入れました。
郅支単于は烏就屠の陰謀に気づき、兵を率いて逆に烏孫を撃ち破ります。
勝ちに乗じた郅支単于は北に向かって烏揭、堅昆、丁令を攻め、三国を併合しました。
その後もしばしば兵を送って烏孫を撃ち、常に戦勝します。
堅昆の東から単于庭までは七千里あり、南から車師までは五千里ありました。郅支単于はこの地に留まり、北匈奴の都にしました(郅支単于匈奴北匈奴、呼韓邪単于匈奴南匈奴といいます)
 
[] 『漢書帝紀』からです。
宣帝が詔を発しました「上古の治とは君臣が同心し、挙措曲直が全て所を得ていたと聞く(挙動の是非が全て的を得ていたと聞く)。そのおかげで上下が和洽(和睦)し、海内が康平になった。その徳は及ぶことができない。朕は不明なので、しばしば公卿大夫に申詔(訓告)し、寬大な行動に務めて民が疾苦とすることに順じさせ(民の疾苦を理解して民意に順じさせ)、それから三王(夏周)の隆に配して(三王の隆盛に追随して)先帝の徳を明らかにしようと欲した。しかし今、ある吏は姦邪を禁じないことを寬大とみなし、罪がある者を釈放することを不苛(苛酷ではないこと)とみなし、ある吏は酷悪を賢とみなし、どちらも中(適切な状態)を失っている。このように詔を奉じて宣化(教化)するとは、大きな誤りではないか(豈不繆哉)。今、天下は少事なので、繇役(徭役)を省減し、兵革も動かしていない(戦争もない)。しかし民の多くは貧しく、盗賊も止まない。この咎はどこにあるのだ。計簿(郡国の戸籍や賦税の状況)を提出しても、文が具わっているだけだ(文書があるだけで現実が反映されていない)。欺謾(欺瞞)に務めて課(責任。追及)から逃れている。三公がこれを意にしなかったら、朕は誰に任せればいいのだ。卒徒(労役の者)を省いて自給するという詔を請う者がいても(今後は)全て却下する(原文「諸請詔省卒徒自給者皆止」。下述します)。御史は計簿を審査し、事実ではない疑いがある者は調査せよ。真偽を互いに乱れさせてはならない(真実と虚偽を混同させてはならない)。」
 
「諸請詔省卒徒自給者皆止」の部分を『漢書帝紀』の注を元に簡単に解説します。
武帝の時代、国家の経費が不足したため、朝廷の利益となることを奨励しました。そこで、一部の詔使(詔を奉じた使者)は、自分の俸禄を受け取らず、代わりに随行する卒徒の数を減らしてその費用の一部を自分の収入にすることを申請しました。ところが姦吏がこれを利用して本来の俸禄よりも多い収入を得るようになったため、宣帝はこの制度を廃止しました。
あるいは、当時、徭役が減って卒徒も省かれたため、群臣の中には自分の官府に卒徒を入れることを請う者がいました。宣帝はそれに同意していましたが、後悔して許可しないことにしました。
顔師古は前者の説が正しいとしています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、孛星(異星。彗星の一種)が王良、閣道に現れ、紫微(または「紫微宮」「紫宮」)に入りました。
紫微宮は天体の皇宮に当たります。閣道は紫微宮に向かって伸びる線上の星座で、王良は閣道の傍にある星です。
 
[] 『漢書帝紀からです。
夏四月、宣帝が詔を発しました「廉吏を挙げるのは、誠にその真を欲するからである(廉吏を推挙させる理由は、清廉の気風が実際に行き届くことを欲するからである)。六百石の吏で位(爵位)が大夫(第五爵)の者は、有罪先請(罪を犯しても官員の判断で裁くことができず、必ず皇帝に報告して指示を仰がなければならないこと)の特権があり、秩禄は上に通じているので(朝廷が秩禄を決めて把握しているので)、その賢材(賢才)に倣わせるには充分である(足以効其賢材)。よって、今から後は挙げてはならない(六百石以上の官吏は既に特権があり、人々の模範となる立場にいるので、今後、廉吏として推挙してはならない)。」
 
[] 『漢書帝紀漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
宣帝が病に倒れました(寝疾)
宣帝は大臣の中から後事を託せる者を選び、外属外戚の侍中楽陵侯史高、太子太傅蕭望之、少傅周堪を禁中に招いて、史高を大司馬車騎将軍に、蕭望之を前将軍光禄勳に、周堪を光禄大夫に任命しました。
それぞれ遺詔を受けて新帝を輔政し、尚書の政事を兼務することになります(領尚書事)
 
資治通鑑』胡三省注によると、この後、漢で遺詔を受けて輔政する者は全て「領尚書事」を命じられ、東漢になって「録尚書事」に改められました(「領尚書事」自体は昭帝が即位した時、霍光、金日磾、上官桀が尚書の政務を兼任したことから始まりました。武帝後元二年87年参照)
 
冬十二月甲戌(初七日)、宣帝が未央宮で死にました。
漢書帝紀』の注臣瓉)は「宣帝は十八歳で即位し、在位二十五年で死んだ。寿は四十三歳だった」としています。
 
以下、『漢書』の編者班固の宣帝に対する評価です。
「孝宣の政治は、功績があれば必ず賞され、罪があれば必ず罰せられ(信賞必罰)、名実を総合して考査し(綜核名実)、政事文学法理の士は全てその能(能力。本職)に精通しており、技巧工匠器械(器具)に至っては、後の元成の間元帝と成帝の時代)、及ぶ者がほとんどいなかった。ここからも(宣帝時代は)(官吏)が自分の職を全うし、民が自分の業に安んじていたことがわかる。ちょうど匈奴の乖乱(動乱)の時に当たったため、亡ぶべき者(正道を失った者。郅支単于を亡ぶように促し、存続させるべき者(正道を守っている者。呼韓邪単于を助けて安定させた(推亡固存)。威を北夷に伸ばしたので(または信と威を北夷に及ぼしたので。原文「信威北夷」)単于が義を慕い、稽首して藩を称した。宣帝の功は祖宗に光を与え、業を後嗣に垂らした(伝えさせた)。よって、(宣帝の治世を)『中興』と称し、その徳は殷宗商王朝の高宗武丁)、周宣西周の宣王)に並べることができる。」
 
[] 『漢書・宣帝紀』『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸巳(二十六日)、太子劉奭が皇帝の位に即きました。これを元帝といいます。
 
元帝は高廟(高帝廟)を拝謁してから、皇太后(上官氏)を尊んで太皇太后とし、宣帝の皇后(王氏)を皇太后にしました。
 
資治通鑑』は宣帝が即位した時にも「皇太后(上官氏)を尊んで太皇太后にした」と書いています(昭帝元平元年74年参照)
漢書』を見ると、皇太后太皇太后になるのは、『外戚伝上(巻九十七上)』では宣帝が即位した時、『宣帝紀』と『元帝紀』では元帝が即位した時です。
資治通鑑』は宣帝の即位時には『外戚伝上』を元にし、元帝の即位時には『宣帝紀』と『元帝紀』を元にしているため、記述が重複しています。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代218 元帝(一) 元帝即位