西漢時代220 元帝(三) 弘恭と石顕 前47年(1)

今回は西漢元帝初元二年です。三回に分けます。
 
西漢元帝初元二年
甲戌 前47
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、元帝が甘泉に行幸し、泰畤で郊祭を行いました。
雲陽の民に爵一級を、女子には百戸ごとに牛酒を下賜しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
楽陵侯史高は外属外戚として領尚書事となり、前将軍蕭望之、光禄大夫周堪がそれを補佐していました。
蕭望之は名儒として知られており、周堪と共に元帝の師傅を勤めたことがあったため、元帝は二人に旧恩を抱いて信任していました。
元帝はしばしば二人を宴見(暇な時に接見すること)して治乱や王事について語り合いました。
蕭望之は宗室の中から経文に精通していて行いが正しい者を選び、散騎諫大夫劉更生を給事中に推挙しました。劉更生は侍中金敞と共に元帝の左右で過失を補います。
資治通鑑』胡三省注によると、散騎は加官(兼任の官)で、乗輿車(皇帝の車)に並んで騎乗します。給事中は禁中に仕える官です。
 
劉更生は高帝の弟楚元王劉交の子孫です。元王劉交の死後、夷王劉郢客を経て、劉戊が継ぎましたが、呉楚七国の乱を起こしたため、劉戊は誅されました。
その後、元王の子平陸侯劉礼が楚王に立てられました。これを楚の文王といいます。文王の後、安王劉道、襄王劉注、節王劉純と継承して劉延寿に至り、宣帝地節元年(前69年)に罪を犯して自殺しました。
元王劉交には劉富という子もいました。夷王劉郢客の弟に当たります。劉戊が謀反した時に諫めましたが、逆に脅迫されたため京師に奔りました西漢景帝前三年154年参照)
劉富の子を劉辟疆といい、昭帝に仕えました(昭帝始元二年85年参照)
劉辟疆の子劉徳は宣帝の即位を助けたため、関内侯の爵位を与えられました。『漢書楚元王伝(巻三十六)』によると、宣帝地節年間には陽城侯に封じられています。
劉徳は麒麟閣十一功臣の一人に選ばれました(宣帝甘露三年51年)
劉徳の子が劉更生で、後に劉向に改名します。
 
本文に戻ります。
䔥望之、周堪、劉更生、金敞の四人は協力して国家の計策を商議し、元帝が古制に則るように導いて政策の過りを正そうと欲しました。元帝は四人に共感してその意見を採用します。
史高は高位にいるだけで実際の政治を行う機会がなくなったため、蕭望之等と対立するようになりました。
 
中書令弘恭(弘が姓氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代衛の大夫に弘演がいました)と中書僕射石顕は宣帝の時代から久しく枢機(中枢)を掌管しており、文法(法令)に習熟していました。
元帝は即位してから病が多かったため、中枢で久しく政事を行っている石顕を信任しました。石顕は中人(宦官)なので外党(親戚や妻の家族)がなく、しかも任務に専念しています。元帝は石顕に政務を委ねるようになり、事の大小に関わらず全て石顕を通して上奏させ、決定を下しました。
そのため石顕の貴幸(寵信)は朝廷中を凌駕し、百僚が皆、石顕に敬事しました。
 
石顕の為人は巧慧で事理に通じていたため、元帝の微指(わずかな意志)も深く知ることができました。しかし内面は深賊(陰険)で、詭辯を用いて人を中傷しました。反対する者がいたら目を見開いて怒りを表し(または「反対する者がいたり、わずかな怨みがあったら」。原文「忤恨睚眦」)、いつも危法(厳酷な法)を加えました。
石顕は車騎将軍史高と組んで表裏になり、議論の際は常に故事(前例)を堅持して蕭望之等には従いませんでした。
 
蕭望之等は許氏と史氏の放縦に患苦し、弘恭と石顕の擅権(専権)を憎んだため、元帝に建議して言いました「中書は政本(政治の根本)であり、国家の枢機(中枢)に位置するので、通明(光明)公正の者を居させるべきです。武帝は後庭で游宴したので宦者を用いましたが、古制ではありません。中書の宦官を罷免し、古(の帝王)が刑人を近づけなかった義(道義。道理)に応じるべきです。」
この後、蕭望之等と史高、弘恭、石顕等の対立がますます大きくなりました。
しかし元帝は即位したばかりで重臣に対して謙讓していたため、制度を改めるのは困難でした。結局、蕭望之の建議は久しく採用されず、逆に劉更生が中朝(散騎給事中)から出されて外朝の宗正に任命されました。
 
蕭望之と周堪はしばしば名儒や茂材を推挙して諫官に任命させようとしました。
会稽の鄭朋が秘かに蕭望之等に附こうと思い、上書して車騎将軍高の罪を訴えました。史高が客を各地に派遣して郡国で姦利(不正な利益)を得ていることや、許氏と史氏の子弟が犯した罪過について言及します。
元帝は章(上奏文)を周堪に見せました。
周堪が言いました「鄭朋に命じて金馬門で待詔(詔を待つこと)させてください。」
 
鄭朋が記(文書)を蕭望之に提出してこう伝えました「今は将軍が規橅していますが(法度を作っていますが)、管(管子や晏子のようにできたら休むつもりですか?それとも、日昃(日が傾く頃)まで遂行して(昼食をとる暇もなく職務を行って)、周(周公や召公)のような姿に至ってから止めるつもりですか?もし管晏のようになったら休むというのであれば、下走(僕人。私)は延陵の皋(沼澤)に帰り、歯がなくなるまで(終生)そこで暮らすだけです(没歯而已)。もし将軍が周召の遺業を興し、自ら日昃まで兼聴(広く意見を聞くこと)するなら、下走(私)は区区とした力を尽くして万分の一でも奉じることを願います。」
蕭望之は鄭朋を接見して誠心誠意もてなしました。
しかし蕭望之は後に鄭朋の傾邪(不正邪悪)を知り、関係を絶ちました。
 
鄭朋は楚士だったため、怨恨を抱いて許氏、史氏に取り入りました(会稽は楚に属します。『資治通鑑』胡三省注によると楚人は脆急(恐らく短気の意味)だったため、怨みを抱きました)
鄭朋は蕭望之に近付いたことを弁解して許氏と史氏にこう言いました「全て周堪と劉更生が私にそうさせたのです。私は関東の人です。どうしてそれを知ることができたでしょう。」
侍中許章が元帝に報告して鄭朋を接見するように勧めました。
元帝に謁見した鄭朋は退出してから「私は謁見して前将軍(蕭望之)の小過を五つと大罪を一つ話した」と公言しました。
 
待詔の華龍(華が氏)も周堪等に取り入ろうとしましたが、素行が劣っていたため、周堪等は拒否しました。そこで華龍は鄭朋と結びました。
 
弘恭と石顕が鄭朋と華龍に命じて蕭望之等を告発させました。内容は「蕭望之等が陰謀して、車騎将軍(史高)を罷免させ、許氏と史氏を退けようとしている」というものです。
蕭望之が休日に皇宮から出る時を待って(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では、三署郎以上で禁中に入っている者は十日に一度、休沐(休暇)が与えられました)鄭朋と華龍に上書させました。
元帝は上書を弘恭に下して調査させました。
蕭望之が弘恭に答えて言いました「外戚は高位にいて多くが奢淫なので、国家を匡正することを欲している。(高位にいる外戚を除くのは)邪を為すためではない。」
弘恭と石顕が元帝に上奏しました「蕭望之、周堪、劉更生は朋党を組んで互いに推挙し合い、しばしば大臣を譖訴(誹謗)し、親戚を毀離(誹謗離間)させ、そうすることで権勢を専擅しようとしています。臣としては不忠であり、上を誣告するのは不道(無道)なので、謁者を派遣して廷尉に召致する(到らせる。送る)ことを請います(請謁者召致廷尉)。」
元帝は即位したばかりだったため、「召致廷尉(廷尉に到らせる。廷尉に送る)」が下獄を意味することに気付かず、弘恭と石顕の上奏を許可しました。
 
後に元帝が周堪と劉更生を召しましたが、近臣が「獄に繋がれています」と言いました。
元帝は大いに驚いて「廷尉が問うただけではないのか!」と言い、弘恭と石顕を譴責しました。二人とも叩頭して謝ります。
元帝が言いました「彼等を出して視事(政務を行うこと)させよ。」
しかし弘恭と石顕が史高にこう言わせました「上(陛下)は即位したばかりで徳化がまだ天下に聞こえていないのに、先に師傅を審問しました。既に九卿(宗正劉更生)と大夫(光禄大夫・周堪)を獄に下したのですから、これを理由に罷免の決定を下すべきです(釈放したら理由もなく師傅を審問・逮捕したことになります)。」
元帝は詔を発して丞相と御史にこう伝えました「前将軍望之は朕の傅(太子太傅)を勤めて八年になり、他に罪過はない。今、事は既に久遠になり、識忘して(記憶を忘れて)明らかにするのが困難なので(罪状を明らかにするのは困難なので)、望之の罪は赦すが、前将軍光禄勳の印綬を没収する。堪と更生は皆、免じて庶人とする。」

元帝は三人を罷免しましたが、すぐに再起用します。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代221 元帝(四) 張敞 前47年(2)