西漢時代226 元帝(九) 劉更生 前43年(2)

今回は西漢元帝永光元年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
石顕が周堪、張猛等を嫌ってしばしば讒言しました。
劉更生(この時は庶民です)が傾危(危機に陥ること)を恐れて上書しました「臣が聞くに、舜が九官(司空禹、后稷棄、司徒契、作士・皋陶、共工垂、朕虞益、秩宗伯夷、典楽夔、納言龍です)を任命した時は、人材が集まって互いに謙譲し、和が極まりました(済済相讓和之至也)。衆臣が朝(朝廷)で和したら万物が野で和し、そのおかげで簫で『韶』を九回奏でたら鳳皇鳳凰が姿を現しました(簫韶九成鳳皇来儀)。しかし周幽(幽王と厲王)の時代は朝廷が不和になり、互いに非怨(怨恨)したので、日食と月食を招き(日月薄食)、水泉が沸騰し、山谷が場所を換え(山が崩れたという意味です)霜降が節を失いました(季節を外れて霜が降りました)。このように観ると、気が和したら祥(吉祥)が訪れ(和気致祥)、気が乖離したら異(異変)が訪れます(乖気致異)。祥が多ければその国は安まり、異が多ければその国は危うくなります。これは天地の常経(規律)であり、古今の通義でもあります。今、陛下は三代(夏周の隆盛)を開き、文学の士を招き、優游寬容(「優游」も「寛容」の意味です)な態度で同時に(様々な者を朝廷に)進ませています。そのため、今は賢と不肖が渾殽(混在)し、白黒が分かれず、邪正が雑糅(混雑)し、忠讒(忠臣と讒臣)が並んで進んでいます。章(上奏文)を公車(北闕の官署)に提出したら北軍を人が満たし(『資治通鑑』胡三省注によると、中塁校尉が北軍塁門内を管理しました。尉が一人おり、上書した者の獄を担当します。公車に上書してその内容が相応しくなかったら、北軍尉に引き渡され、北軍尉は法に基づいて処罰しました。「北軍を人が満たす」というのは、上書の内容が相応しくないため逮捕された者が多いという意味です)朝臣は舛午、膠戾、乖剌(三つとも「意見が合わず不仲」という意味です)し、互いに讒言誹謗して是非を争い(更相讒愬,転相是非)、それによって(陛下の)耳目を営惑(惑乱)させて心意に影響を与えており(感移心意)(このような事例があまりにも多いので)全てを書き尽くすことはできません(不可勝載)朝臣は)それぞれ分かれて党を組み(分曹為党)、往々にして協力し合って群れを為し(往往群朋)、同心になって正臣を陥れています。正臣が進むのは治の表(正しく治まっている証拠)です。正臣が陥れられるのは乱の機(乱の原因。または「乱の兆し」。または「乱の時」)です。治乱の機に乗じているのに(治乱の重要な時に臨んでいるのに)誰を任用するべきかまだ分からず、しかも災異がしばしば現れています。これが臣の心を寒くさせる原因です。
初元以来元帝即位以来)六年になりますが、『春秋』の記載の中で、六年の間に災異が今のように多かったことはありません。このようになる原因は、讒邪(讒臣と邪臣)が並んで進んでいるからです。讒邪が並んで進む理由は、上(陛下)の疑心が多いからです。既に賢人を用いて善政を行っても、ある者が讒言したら賢人は退いて善政も還す(返上する。終了する)ことになります。狐疑の心を持つ者は讒賊の口を招き、不断(優柔不断)の意を持つ者は群枉(奸悪の群れ)の門を開きます。讒邪が進めば衆賢が退き、群枉が盛んになれば正士が消えます。だから『易』には『否』と『泰』(否と泰は卦の名称です。否は道が塞がっていること、泰は道が通じていることです。盛衰消長を表します)があるのです。小人の道が長くなれば君子の道が消え、政事が日に日に乱れます。逆に君子の道が長くなれば小人の道が消え、政事が日に日に治まります。
昔、鯀、共工驩兜と舜、禹が堯朝(帝堯の朝廷)に雑処し(共に仕え)、周公と管蔡が並んで周の位(高位)にいました。当時は(奸人が)代わる代わる相手を誹り(迭進相毀)、流言によって誹謗しており(流言相謗)(そのような例があまりにも多いので)どうしてそれを言い尽くせるでしょう(豈可勝道哉)。しかし帝堯と西周成王は舜、禹、周公を賢人とみなし、共工、管、蔡を消す(排斥する)ことができたので、(国を)大治して栄華が今にまで至っています。孔子と季(季孫氏)(孟孫氏)は共に魯に仕え、李斯と叔孫(叔孫通)は共に秦で仕官しました。しかし()定公と()始皇は季、孟、李斯を賢人とみなして孔子と叔孫を消した(排斥した)ので、大乱を招いて汙辱(汚辱)が今にまで至っています。よって治乱栄辱の端(きっかけ)(国君が)信任する者にかかっています。信任した者が賢才なら、堅固して変えないことにかかっています。『詩(邶風柏舟)』にはこうあります『私の心は石ではないが、動かすことはできない(石は大きくても動かすことができるが、私の心は石よりも固くて動かすことができない。原文「我心匪石,不可転也」)。』これは善を守る態度が堅固なことを言っているのです。『易』にはこうあります『国君の号令は汗が出るのと同じである(渙汗其大号)。』号令が汗のようであるというのは、汗が出たら戻ることがないのと同じだという意味です。今は善令を出しても踰時(わずかな期間。『資治通鑑』胡三省注によると三カ月)も経たずに撤回しています。これは『反汗(汗を戻すこと)』です。賢才を用いても三旬(三十日)も経たずに退けるのは『転石(石を動かすこと)』です。『論語』にはこうあります『善ではない事を見たら、熱湯を手で探った時のように避ける(見不善如探湯)。』最近、二府が位(高位)にいるべきではない佞(佞諂)の者を上奏しましたが、年を経ても去りません。そのため令を出す態度は汗を戻すのと同じであり(出令則如反汗)、賢才を用いる態度は石を動かすのと同じであり(用賢則如転石)、佞臣を除くのは山を抜くように(困難に)なっています(去佞則如抜山)。このようであるのに陰陽の調和を望んでも、難しいのではありませんか。
現状がこうであるので、群小(小人の群れ)が間隙を窺い見て文字を縁飾し(文書を飾り)、巧言によって醜詆(人を賎しめ辱めること)し、流言、飛文(人を誹謗する匿名の書)が民間に溢れています(流言飛文譁於民間)。『詩(邶風柏舟)』にはこうあります『憂心悄悄(憂いる様子)として群小に憤る(憂心悄悄,慍於群小)。』小人が群れを成したら誠に慍(憤慨。怨怒)するに足ります。昔、孔子と顔淵、子貢は互いに称え合いましたが、朋党を作りませんでした。禹、稷と皋陶は互いに推挙し合いましたが、比周(結託)しませんでした。なぜでしょうか。国に対して忠であり、邪心がなかったからです。今は佞邪と賢臣が交戟(宿営)の内に並び、(佞邪の者は)合党共謀し(党を作って共に謀り)、善に違えて悪に向かい、歙歙訿訿(小人が集まって徒党を組むこと)として、しばしば危険の言(険悪な讒言)を設けて主上に傾移(意見を傾けること)させようと欲しています。突然それを用いたら、天地が先に戒め、災異が重ねて訪れる原因となります。
古から明聖の君主で誅殺することなく治めた者はいません。よって舜には四放の罰があり(舜は共工を幽州に、驩兜を崇山に、三苗を三危に、鯀を羽山に放逐しました)孔子には両観の誅があり孔子は両観の下で少正卯を誅殺しました)、その後、聖化を行うことができました。今、陛下の明知をもって、誠に天地の心を深く思い、『否』『泰』の卦を観察し、周(成王)、唐(堯)が進めたところを法とし(周成王と堯が人材を用いた姿を見本とし)、秦、魯が消したところ(秦と魯が排斥した人材)を考慮して戒めとし、祥応の福(吉祥が善政に応じる福。吉祥がもたらす福)と災異の禍を考え、こうすることで当世の変を推測し、佞邪の党を遠くに追放し、険詖の聚(険悪奸邪の集まり)を壊散させ、群枉(奸悪の群れ)の門を塞いで閉ざし、衆正の路を広く開き、狐疑(懐疑していること)を決断し、猶豫(躊躇)から分別(決別)し、是非を明白にして理解できるようにすれば(炳然可知)、百異(多数の変異)が消滅して衆祥(多数の吉祥)が並んで至り、太平の基、万世の利となります。」
石顕はこの上書を見て、ますます許氏や史氏と関係を強め、劉更生等を憎みました。

この年は夏なのに寒く、太陽が青くて光がありませんでした(日青無光)
石顕と許氏、史氏は皆、周堪と張猛が政治に参与しているために咎を受けていると言いました。
元帝は内心では周堪を尊重していましたが、衆口(大勢の意見)が浸透して(周堪等が)信用を得られなくなることを憂いました。
当時、長安楊興はその材能(才能)によって寵用されており、しかもしばしば周堪を称賛していたため、元帝は楊興の助けを得ることにしました。
そこで楊興を接見して問いました「朝臣が齗齗(論争の様子)として光禄勳(周堪)を不可と言っているが(反対しているが)なぜだ?」
実は楊興は傾巧(狡猾)の士だったため、元帝が周堪を疑っていると思い、罪を指摘してこう言いました「周堪は朝廷だけにおいて不可なのではありません。州里(郷里)においても不可です。臣が見たところ、衆人は周堪と劉更生等が謀って骨肉(皇族。外戚を誹謗していると聞き、誅殺するべきだと考えています。今まで臣が上書して周堪を誅傷するべきではないと言ったのは、国に恩を養わせるためです(国から周堪に恩恵を与えることで国の徳を大きくするためです)。」
元帝が問いました「それでは何の罪で誅すべきだ?今はどうするべきだ?」
楊興が言いました「臣の愚見によるなら、関内侯の爵と食邑三百戸を下賜して、典事(政務を管理すること)させなくします。こうすれば明主は師傅の恩を失いません。これが最も的を得た策です(此最策之得者也)。」
この後、元帝も周堪等を疑うようになりました。
 
 
 
次回に続きます。

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