西漢時代240 元帝(二十三) 王昭君 前33年(2)

今回は西漢元帝竟寧元年の続きです。
 
[] 帰還した呼韓邪単于王昭君(王嬙。昭君は字)を寧胡閼氏と号しました。
資治通鑑』胡三省注によると、「胡匈奴がこれを得て国が安寧になる」という意味です。
王昭君は一男を産みました。伊屠智牙師といい、右日逐王になります。
 
王昭君は「中国四大美女」の一人とされています。他の三人は春秋時代の西施、東漢末の貂蝉(『三国演義』に登場する人物です)、唐の楊貴妃です王昭君を外して虞美人を入れることもあります)
 
王昭君が呼韓邪単于の妻に選ばれた経緯について、東晋の葛洪がまとめた『西京雑記』に記述があります。
元帝後宮には大勢の美女がいましたが、全ての宮人(宮女)に会うことはできないため(原文「不得常見」。直訳すると「常に会えない」です。意訳しました)元帝は画工(画家)肖像画を描かせ、絵を元に召して幸しました。
宮人達は皆、(自分を美しく描かせるため)画工に賄賂を贈り、多い者は十万銭、少ない者でも五万銭を下りませんでした。しかし王嬙だけは賄賂を贈ることを拒否したため、元帝に会う機会がありませんでした。
匈奴が入朝した時、美人を求めて閼氏に立てることになりました。
元帝肖像画を元に王昭君匈奴に送ることにします。
王昭君が去る時、元帝王昭君を召して初めて会いました。すると王昭君後宮第一の美貌で、応対にも優れており、挙止(挙動)も閑雅(優雅)でした。
元帝は後悔しましたが、名籍が既に定められています。元帝は外国に対する信義を重視したため、人を換えるわけにはいきません。
後に元帝はこの件を追求し、画工を全て棄市に処しました。画工の家資(家財)を没収したところ、皆、巨万に上りました。
画工の中に杜陵の毛延寿という者がいました。人物を描いたら美醜も老少も必ず真に迫っています。
安陵の陳敞と新豊の劉白、龔寬も牛馬飛鳥の様々な姿や人物の美醜を描きましたが、毛延寿には及びませんでした。下杜の陽望も絵が得意で、特に布色(着色。色彩)に優れていました。樊育も布色が得意でした。
彼等は同日に棄市に処され、この事件が原因で京師の画工が減少しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
皇太子劉驁が冠礼を行いました。
列侯の嗣子(後継者)に五大夫の爵(第九爵)を、天下で父の後を継ぐ立場にいる者に爵一級を下賜しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月、御史大夫李延寿が死にました。
漢書元帝紀』の注と『漢書・百官公卿表上下』によると、李延寿は一説では「繁延寿」といいます。
 
馮奉世は父子(子は恐らく大鴻臚の馮野王を指します)ともに公卿を勤めて名が知られており、娘も宮内で昭儀になっていました。
石顕が心中で馮奉世に近付こうと欲し、元帝にこう言いました「昭儀の兄で謁者の馮逡は脩敕(慎重で節を守っていること)なので幄帷に侍らせるべきです。」
元帝は馮逡を召して侍中にしようとしました。
ところが馮逡は元帝に時間がある時に単独で進言する機会を請い、石顕が専権していることを語って聞かせました。元帝は激怒して馮逡を郎官に戻しました。
 
後に李延寿が死んで御史大夫が欠員になると、官位にいる者の多くが馮逡の兄にあたる大鴻臚馮野王を御史大夫に推薦しました。
元帝尚書に命じて中二千石の官員の中から相応しい人材を選ばせました。その結果、やはり馮野王の行能(行動と能力)が第一に選ばれます。
元帝が石顕に意見を求めると、石顕はこう言いました「九卿の中で野王を出る者(野王を越える者)はいません。しかし野王は昭儀の実の兄です。後世の者は必ず陛下が衆賢(多数の賢才)を越えて後宮の親族を偏愛し、三公に立てたと思うでしょう。臣はそれを恐れます。」
元帝が言いました「その通りだ(善)。わしにはそれが見えていなかった。」
 
元帝が群臣に言いました「わしが野王を用いて三公にしたら、後世は必ずわしが後宮の親属を偏愛したと言い、野王をその例として使うことになるだろう。」
 
三月丙寅(中華書局『白話資治通鑑』は「丙寅」を恐らく誤りとしています)元帝が詔を発しました「剛強堅固で確かに欲がない(確然亡欲)人材は、大鴻臚野王がそれである。心辨善辞(心中で是非を見極めることができて弁舌が得意)で四方に使いとすることができる人材は、少府五鹿充宗がそれである。廉潔節倹の人材は、太子少傅張譚がそれである。よって少傅を御史大夫にする。」
こうして張譚が御史大夫になりました。
資治通鑑』胡三省注は「元帝も五鹿充宗が石顕の党だと知っていたため、五鹿充宗ではなく張譚を選んだ」と書いています。
 
漢書馮奉世伝(巻七十九)』によると、この時、馮野王は嘆いてこう言いました「人は皆、女(娘。ここでは姉妹)によって寵貴を得るが、我が兄弟だけはそのために賎しくなった。」
但し、馮野王は三公にならなかったものの、元帝に重用されて当世に名が知られました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
河南太守で九江の人召信臣が少府に任命されました。
 
召信臣はまず南陽太守を勤め、後に河南に遷り、治行(政治の業績)が常に第一でした。
民を我が子のように大切にし、民のために利を興すことを好み、自ら耕稼(農業)を奨励し、溝瀆(灌漑用の水路)を開通させ、戸口を倍増させたため、吏民は親愛して「召父」と号しました。
 
[] 『漢書元帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸卯(中華書局『白話資治通鑑』は「癸卯」を恐らく誤りとしています。『漢書元帝紀』では「三月癸未」です)、孝恵皇帝の寝廟園と孝文太后(文帝の母。薄氏)、孝昭太后(昭帝の母。鈎弋夫人・趙倢伃)の寝園を元に戻しました(孝恵皇帝の寝廟園は元帝永光五年(前39年)に壊され、孝文太后と孝昭太后の寝園は元帝建昭元年(前38年)に廃されました)
 
 
 
次回に続きます。