西漢時代241 元帝(二十四) 甘延寿と陳湯の封侯 前33年(3)

今回も西漢元帝竟寧元年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
中書令石顕は以前、姉を甘延寿に嫁がせようとしましたが、甘延寿に断られました。
甘延寿が郅支単于を破って帰還することになった時、丞相や御史は甘延寿が矯制(皇帝の偽の命令を出すこと)したことを憎み、甘延寿等の功績を評価しませんでした。
陳湯は元々貪婪で、奪った財物を運んで塞に入り、不法が多くありました。
漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』顔師古注は「不法」を解説して「戦利品を勝手に自分の物とし、軍法に則らなかったことを指す」としています。『資治通鑑』胡三省注は「外国の財物を勝手に辺関に入れたことを指す」としています。
 
司隸校尉が沿路の郡県に書を送って吏士(陳湯の部下)を逮捕させ、罪状を調査しました。
陳湯が上書して言いました「臣と吏士が共に郅支単于を誅し、幸いにも禽滅(捕獲して滅ぼすこと)して万里を振旅(凱旋)することができました。(朝廷の)使者が道路で迎えて労うべきです。しかし今、司隸が逆に逮捕審問しています(反逆收繫按実)。これでは郅支のために讎に報いることになります。」
元帝はすぐに吏士を釈放させ、県(蛮夷がいる地を「道」といいます)に命じて酒食で軍を労わせました。
 
甘延寿と陳湯が京師に入ってから、朝廷が論功を行いました。
しかし石顕と匡衡がこう言いました「甘延寿と陳湯は勝手に師を興して矯制しましたが、幸い誅されずに済みました。もし更に爵土を加えたら、後に使者の命を奉じた者は争って危険に乗じて幸運を欲し(争欲乗危徼幸)、蛮夷で事を起こして国に難を招くことになるでしょう。」
元帝は心中では甘延寿と陳湯の功を称賛していましたが、匡衡と石顕の意見に逆らうわけにもいかず、久しく決断できませんでした。
 
元宗正劉更生が上書しました。
劉更生はこの時、庶人に落とされています。『資治通鑑』は劉更生の名を「劉向」としており、胡三省注が「本名は更生というが、ここに至るまでに改名した」と解説しています。しかし『漢書楚元王伝(巻三十六)』を見ると、劉更生が劉向に改名するのは成帝が即位してからの事です。
 
以下、『資治通鑑』から劉更生の上書です「郅支単于が囚殺(捕えたり殺すこと)した(漢の)使者や吏士は百を数えました。この事は外国に暴揚され、(漢朝の)威重を損ない(傷威毀重)、群臣が皆憂いました。陛下は赫然として(激しく怒って)これを誅そうと欲し、その意志を忘れたことがありません。西域都護甘延寿、副校尉陳湯は聖指(皇帝の意志)を受けて神霊に頼り、百蛮の君をまとめ、城郭の兵を統率し、百死(生きては帰れない場所)に出て絶域に入り、康居を踏んで(赴いて)、三重城単于城。土城と二重の木城でできていました)を屠し(破り)、歙侯の旗を抜き、郅支の首を斬り、万里の外に旌(旗)を掲げ、昆山(崑崙山)の西に威を揚げて、谷吉の恥(恥辱。谷吉は郅支単于に殺されました)を掃き(除き)、昭明の功(明らかな功績)を立てました。そのおかげで万夷が恐れて伏し、懼震(恐れ震えること)しない者はいません。呼韓邪単于は郅支が既に誅されたのを見て、喜びかつ懼れ、義を慕って馳せ参じ(郷風馳義)、稽首して来賓となり、北藩を守って累世(歴代)の臣を称すことを願いました。千載(千年)の功を立てて万世の安を築き、群臣の勳(功績)でこれより大きいものはありません。
昔、周の大夫方叔と吉甫(尹吉甫)が宣王のために獫狁を誅したので、百蛮が従いました。だから『詩(小雅采芑)』にはこうあります『戦車が進み、雷霆のように轟く。顕允(尊貴かつ英偉。または威信が明らかなこと)な方叔が獫狁を征伐し、蛮荊が威服する(嘽嘽焞焞,如霆如雷。顕允方叔,征伐獫狁,蛮荊来威)。』また、『易』にはこうあります『敵を斬首したり捕虜にしたら嘉するべきだ(または「敵を斬首したら嘉するべきだ。そうすれば、その同類も捕えられる。」原文「有嘉折首,獲匪其醜」。「折首」は斬首です。「匪其醜」の「匪」は「彼」「敵」の意味で、「醜」は「衆」の意味です。「匪其醜」は「敵軍」を指します。もしくは、「醜」は「同族」「同類」を意味します)。』これは、首悪の人を誅殺したことを称賛すれば、他の不順の者(従わない者)も皆、集まって帰順すると言っているのです。今、甘延寿と陳湯の誅伐がもたらした震(震撼。震動)は、『易』の折首(斬首)も『詩』の雷霆も及びません。大功を論じる際は、小過を記録しないものです。大美を挙げる際は、小さな傷を批難しないものです(不疵細瑕)。『司馬法』はこう言っています『軍事上の賞賜は月を越えない(軍賞不踰月)』。これは善を行ったことによる利(利益)を速く民に得させたいからであり(民に善を奨励して功績を立てさせるためであり)、武功を優先して(急武功)、人を用いることを重視しているからです(重用人)
吉甫が帰還した時、周は厚く賞賜しました。そのため、『詩』はこう言っています『吉甫が燕喜し(宴を楽しみ)、既に多くの祉(福。賞賜)を受けた。鎬(周都の鎬ではありません。北方の地で獫狁が侵略していました)から帰還したが、我が行軍は長久だった(吉甫燕喜,既多受祉。来帰自鎬,我行永久)。』千里離れた鎬でも遠かったのです。万里の外ならなおさらであり、その勤(辛勤。困難)は極まったと言えます(其勤至矣)。ところが甘延寿と陳湯はまだ受祉の報(賞賜を受ける報い)を得ておらず、逆に捐命の功(命を棄てて立てた功績)のために屈し(難を受け)、久しく刀筆(官吏)の前に挫しています(難を受けています)。これは功がある者を奨励して戎士(戦士)を勧める(励ます)方法ではありません。
昔、斉桓桓公には前に尊周の功(周王室を尊重して援けた功)があり、後に滅項の罪(項国を滅ぼした罪)がありましたが、君子は功が過を覆っている(功績が過失を越えている)と考え、桓公のために隠しました(『資治通鑑』胡三省注によると、斉桓公が項国を滅ぼしましたが、『春秋』は「僖十七年夏、滅項」としか書いておらず、『公羊伝』が「斉がこれを滅ぼしたが、斉に言及しないのは桓公のために隠したのである」と解説しています)。貳師将軍李広利は五万の師を損ない、億万の費を消耗し、四年の労を経たのに、わずかに駿馬三十匹(頭)を獲ただけでした。確かに宛王母寡の首を斬りましたが、消耗した費用を補うにはまだ足りず、彼個人の罪悪も甚だ多数ありました。しかし孝武は万里の征伐を評価してその過ちを記録せず、(李氏から)両侯を封じて三卿を抜擢し、二千石の官任に任命された者は百余人もいました。康居の国は大宛より強く、郅支の号は宛王より重く、使者を殺した罪は馬を留めたこと(献上しなかった罪)より重大です。しかし甘延寿と陳湯は漢士を煩わせず、一斗の糧も費やしませんでした。貳師と較べて功徳は百倍も勝っています。
しかも、(近年において)常恵は攻撃を欲する烏孫に従い烏孫と共に亀茲を撃ち。原文「常恵隨欲撃之烏孫」)、鄭吉は帰順した日逐を自ら迎えに行きましたが(鄭吉迎自来之日逐)、二人とも地を裂いて封侯されました(裂土受爵)。だから(甘延寿と陳湯は)威武勤労においては方叔、吉甫より大きく、列功覆過(功を立てて過ちを覆うこと)においては斉桓、貳師より優れ、近事の功(最近の功績)においては安遠(安遠侯鄭吉)、長羅(長羅侯常恵)よりも高いと言うのです。それなのに大功があっても明らかにされず、小悪がしばしば宣揚されているので、臣は心中で痛惜しています(臣竊痛之)。今すぐ懸案を解いて自由に出入りすることを許し(以時解県通籍)、過ちを除いて裁かず、尊寵して爵位を与え、それによって功を立てることを勧める(奨励する)べきです。」
 
元帝は詔を発して甘延寿と陳湯の罪を赦し、追及しないように命じました。
その後、公卿に封侯について議論させます。議論に参加した者は「捕斬単于令」という軍法に則るべきだと言いましたが、匡衡と石顕が反対してこう言いました「郅支は元々逃亡して国を失い、絶域で単于の)号を秘かに自称していただけです。真の単于ではありません。」
元帝は安遠侯鄭吉の前例に従って千戸に封じようとしました。
しかし匡衡と石顕がまた頑なに反対しました。
 
夏四月戊辰(三十日)、騎都尉・甘延寿を義成侯に封じ、副校尉・陳湯に関内侯の爵位を与えました。食邑はそれぞれ三百戸です。加えて黄金百斤を下賜しました。
甘延寿は長水校尉に、陳湯は射声校尉になりました。
 
尚、『漢書景武昭宣元成功臣表』によると、甘延寿が義成侯に封じられた時の戸数は四百です(三百戸は『漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』の記述で、『資治通鑑』は列伝に倣っています)諡号はわかりません。
 
宣帝元康元年(前65年)に馮奉世も莎車を破って功を立てましたが、勝手に兵を動かしたため封侯されませんでした。そこで杜欽が上書して評価しなおすように求めましたが、元帝は「先帝時代の事である」として受理しませんでした。
杜欽はかつての御史大夫杜延年の子です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
太子劉驁は若い頃から経書を好み、寬博謹慎(寛大博学慎重)でしたが、後には酒を愛し、燕楽(酒宴)を楽しむようになりました。元帝は太子に後継者になる能力がないと判断します。
山陽王劉康には才芸があり、母傅昭儀も愛幸されていたため、元帝は常々山陽王を後嗣にしたいという考えを抱いていました。
 
元帝の晚年は病が多く、自ら政事を行わなくなり、音楽に心を留めました。ある時は鼙鼓(軍鼓)を殿下に置き、元帝自ら軒檻(欄干)の上にもたれて銅丸を落とし、鼓を打ちました。その音は厳鼓の節(戦時の激しい節)に符合します。後宮や左右の近臣で音楽を習熟した者でも真似できませんでしたが、山陽王にはできたため、元帝はしばしばその才能を称賛しました。
すると史丹が進み出て言いました「いわゆる材(才能)というものは、聡明で学を好み(敏而好学)、温故知新できることであり、皇太子にはそれがあります。もし絲竹鼙鼓(各種の楽器)の間で器人(人材を選ぶこと)するのなら(もし音楽の才能で人材を選ぶのなら)、陳恵や李微が匡衡より高明になるので、国を補佐させることもできます(可相国也)。」
資治通鑑』胡三省注によると、陳恵と李微は黄門の鼓吹(奏者)です。
元帝は何も言わずに笑いました。
 
 
 
次回に続きます。