西漢時代249 成帝(七) 陳湯 前29年(2)

今回は西漢成帝建始四年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
南山の群盗傰宗等、数百人が吏民の害になっていました。
成帝は詔を発して兵千人を動員し、傰宗等の駆逐逮捕を命じまたが、一年余経っても捕えられません。
ある人が大将軍王鳳に言いました「賊数百人が轂下(天子の車の下。近畿)に居るのに、討伐しても得られなかったら、四夷に(威を)示すのが難しくなります(四夷に示しがつきません。原文「難以示四夷」)。賢明な京兆尹を選ばなければ解決できません。」
王鳳は元高陵令王尊を推挙し、朝廷に招いて諫大夫守京輔都尉(京輔都尉代行)行京兆尹事(京兆尹代行)にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、武帝が三輔に都尉を起きました。京兆は京輔都尉、馮翊は左輔都尉、扶風は右輔都尉といいます。
 
旬月(十日から一月)の間に盗賊が粛清されました。
後に王尊は正式に京兆尹に任命されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
成帝が即位したばかりの頃、丞相匡衡が上奏しました「射声校尉(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝北軍八校尉を置きました。射声校尉はその内の一つで、秩二千石です)陳湯は二千石の吏(陳湯は西域副校尉を勤め、秩は比二千石でした)として使者の命を奉じましたが、蛮夷の中で顓命(命に従わず勝手に行動すること)し、自分の身を正して下に率先しようとせず(下の見本にならず)、没収した康居の財物を盗み、官属に警告して『絶域の事は厳しく追及されない(絶域事不覆校)』と言いました。これは赦前元帝竟寧元年33年の七月に大赦しました)の事ですが、その地位に居るべきではありません。」
陳湯は罪を問われて罷免されました。
 
後に陳湯が「康居王の侍子(人質)は王子ではない」と訴えました。
しかし調査した結果、本物の王子だと分かります。
陳湯は獄に下されて死刑に処されることになりました。
しかし太中大夫谷永(『資治通鑑』胡三省注によると、谷永は本年に光禄大夫になり、この時も光禄大夫のはずです。ここで太中大夫としているのは『漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』に倣っています)が陳湯のために上書しました「臣が聞いたところでは、楚に子玉得臣がいたので、(晋)文公は坐っても正座できませんでした(不安で落ち着かないという意味です。原文「仄席而坐」)。趙に廉頗、馬服(趙奢)がいたので、強秦も井陘(趙の西境)に兵を用いることができませんでした(原文「不敢窺兵」。「窺兵」は兵を使って侵犯するという意味です)。最近では漢に郅都(景帝時代)、魏尚(文帝時代)がいたので、匈奴が沙幕(沙漠)から南に向かおうとしませんでした。これらの事から、戦克(戦勝)の将は国の爪牙(頼りにするべき臣下)であると言えるので、尊重しないわけにはいきません。君子が鼓鼙(軍中の太鼓)の声(音)を聞いたら、将帥となる臣を思うものです。臣が見るに、関内侯陳湯は以前、郅支を斬って、威が百蛮を震わせ、武が西海に拡がりました。漢元(漢初)以来、方外を征伐した将においてこのような者はいません。
今、陳湯は発言が事実ではなかった罪に坐し(坐言事非是)、幽囚されて久しく繫がれ、時を経ても解決せず、執憲の吏(法官、獄吏)が大辟(死刑)に至らせようと欲しています。昔、白起が秦将となり、南は郢都(楚都)を抜き、北は趙括を阬しましたが(趙括軍を生埋めにしましたが)、纖介の過(些細な過ち)によって杜郵で死を賜ったため、秦の民はこれを憐れみ、涙を流さない者はいませんでした。今、陳湯は自ら鉞を持って席巻し、万里の外を血で染めて(喋血)、戦功を祖廟に献上し(薦功祖廟)、上帝を祭って報告しました(告類上帝)。介冑の士でその義を慕わない者はいません。言事(発言)が罪とされましたが、赫赫とした悪(明らかな悪。大悪)はありません。『周書(恐らく逸書です)』にはこうあります『人の功を記憶して人の過ちを忘れる者が、国君となるにふさわしい(記人之功,忘人過,宜為君者也)。』犬馬でも人に対して労があったら、帷蓋を加えられるという報いがあります(死んでから車の幕や傘が副葬されます)。国の功臣たる者ならなおさらでしょう。陛下が鼙鼓の声を疎かにし、『周書』の意を察することなく、帷蓋の施しを忘れ、庸臣として陳湯を遇し、最後は吏議(刑を行う官吏の意見)に従い、百姓を介然(不安な様子)とさせて秦民の恨みを持たせることになるのではないかと心中で恐れています。これは死難の臣を励ます方法ではありません。」
上書が提出されてから、成帝は陳湯を釈放しましたが、爵位を奪って士伍(兵卒)にしました。
 
ちょうどこの頃、西域都護段会宗が烏孫兵に包囲されたため、駅騎を送って上書し、西域城郭諸国と敦煌の兵を動員して救援させることを請いました。
 
丞相王商と大将軍王鳳および百僚が議論しましたが、数日経っても結論が出ません。
王鳳が言いました「陳湯は籌策(計策)が多く、外国の事にも習熟しているので、意見を問うべきです。」
宣帝は陳湯を召して宣室で会いました。
陳湯は郅支単于を撃った時、中寒(寒気による病)を患ったため、両臂(両腕)を曲げられなくなりました。陳湯が謁見すると、成帝は詔を下して拝礼を免じました。
成帝が段会宗の上奏文を見せました。
陳湯が言いました「臣が思うに、憂いるべきことは何もありません。」
成帝が問いました「それはなぜだ?」
陳湯が答えました「胡兵は五人で漢兵の一人に匹敵します。なぜでしょうか?兵刃が朴鈍(鋭利ではないこと)で、弓弩が不利(劣っていること)だからです。最近は漢の巧(技巧。技術)を多く得たと聞きましたが、それでも三人でやっと一人に匹敵します。また、『兵法』には『客(攻める者)が倍で主人(守る者)が半数になったら、攻守の力が対等になる(攻撃する側の兵が二倍の時、やっと守る側の兵力と対等になる。原文「客倍而主人半,然後敵」)』とあります。今、会宗を包囲している者の人衆(人数)は、会宗に勝つには足りません。陛下が憂いることはありません。そもそも、兵は軽行でも五十里、重行なら三十里しか進めません。今、会宗は城郭と敦煌の兵を発しようと欲していますが、長い時を経てやっと到着しても、これは報讎(報復)の兵というべきであり、救急の用(危急を救う道具)ではありません。」
成帝が問いました「それではどうするべきだ?(包囲が)解けるのは間違いないか?予測ではいつ解ける?」
陳湯は烏孫が瓦合の軍(『資治通鑑』胡三省注によると、割れた瓦が混合していること。烏合の衆)であり、久しく攻撃できない事を知っていたため、前例から推測して数日も経たずに包囲が解かれると判断しました。
そこで「(包囲は)既に解かれています」と言い、指を折って計算して「五日も出ずに吉語(吉報)を聞けるでしょう」と続けました。
四日後、軍書が京師に届いて包囲が解かれたことを報告しました。
 
大将軍王鳳が上奏して陳湯を従事中郎に任命しました。この後、莫府(幕府)の事は陳湯一人で決定されることになります。
資治通鑑』胡三省注によると、大将軍府には従事中郎が二人いました。秩六百石で、謀議に参加しました。
 
 
 
次回に続きます。