西漢時代254 成帝(十二) 王商失脚 前25年

今回は西漢成帝河平四年です。
 
西漢成帝河平四年
丙申 前25
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、匈奴復株累若鞮単于が来朝しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
天下の徒(囚徒)を赦しました大赦しました)
また、孝弟(悌)力田の者に爵二級を下賜し、租賦を納める能力がなく、救済を受けている者からは租賦を徴収しないように命じました(または「救済のために貸し与えた物資は回収しないように命じました。」原文「諸逋租賦所振貸勿收」)
 
[] 『漢書帝紀』からです。
二月、匈奴復株累若鞮単于が帰国しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月癸丑朔、日食がありました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
成帝が光禄大夫博士嘉等十一人を派遣し、黄河沿岸の郡を巡行して状況を報告させました。
洪水のため毀傷(損傷。被害を受けること)困乏して自存できない者がいたら、被害の程度に応じて振貸(救済。物資を提供すること)し、洪水に流されたり圧死して埋葬できない者がいたら、郡国に命じ、槥櫝(小棺)を提供して埋葬させました。既に埋葬した者には、一人当たり二千銭を与えました。
洪水から逃げて他の郡国に遷った者には、所在する郡国に食糧を配らせ(在所冗食之)、文理(条理。決まり)に則って(移民を)厚遇し、(官員が)失職(職責を果たさないこと)しないように命じました(または「移民に生業を失わせないようにしました」。原文「謹遇以文理,無令失職」)
また、惇厚で徳行があり、直言できる士を推挙させました。
 
壬申、長陵の涇水に面した岸が崩れて涇水を塞ぎました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
琅邪太守楊肜は王鳳と婚姻関係にありました。
この頃、琅邪郡で災害があったため、丞相王商が調査しました。
王鳳が楊肜のためにとりなしを求めましたが、王商はこれを聞かず、上奏して楊肜の罷免を請いました。
しかし上奏文は却下されます。
この件が原因で王鳳は王商を怨み、秘かに欠点を探して頻陽の人耿定に上書させました。
耿定が言いました「王商は父の傅婢(侍婢)と通じました。また、女弟(妹)も淫乱だったため、奴(家奴)がその私夫(妹が私通していた男)を殺しました。王商が奴に殺させた疑いがあります。」
成帝はこのような暗昧(曖昧)な過失(証明が難しい罪。または家庭内の過失)で大臣を損なう必要はないと判断しました。
しかし王鳳が頑なに王商を訴え、事案を司隸に下して処理させるように求めます。
太中大夫で蜀郡の人張匡はかねてから佞巧だったため、王鳳に取り入るため、言を尽くして王商を誹謗する上書をしました。
有司(官員)が上奏し、王商を召して詔獄(皇帝が管理する獄)に入れるように請います。
成帝は王商を重任しており、張匡の多くの言が陰険であることも知っていたため、制(皇帝の命)を発して「裁く必要はない(勿治)」と言いました。
それでもやはり王鳳が執拗に王商を訴えます。
 
夏四月壬寅(二十日)、成帝が詔を発して王商から丞相の印綬を没収しました。
王商は丞相を罷免されて三日後に発病し、血を吐いて死にました(『漢書五行志上』では「自殺」としています。成帝河平二年27年参照)。戾侯という諡号が贈られました。
王商の子弟、親属で駙馬都尉、侍中、中常侍、諸曹、大夫、郎吏を勤めていた者は全て皇宮から出されて他の官に任命され、給事や宿衛の官に留まって皇帝の近くに仕えることができなくなりました。
有司(官員)が上奏して王商の国邑を除くように請いましたが、成帝は詔を発して「長子安に爵を継がせて楽昌侯にする」と言いました。
楽昌侯を継いだ王安は後に王莾に殺されます(平帝元始三年・3年)諡号はありません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
成帝が太子だった頃、蓮勺の人張禹に『論語』を学びました。
成帝は即位してから、張禹に関内侯の爵を与え、諸吏光禄大夫に任命しました。秩は中二千石です。更に給事中を兼任させ、尚書の政務も行わせました(領尚書事)
張禹は王鳳と並んで尚書の政務を行うことになりましたが(領尚書、心中不安を抱き、王鳳を避けて退くために、しばしば病と称して引退を請う上書をしました(乞骸骨)
しかし成帝は同意せず、逆にますます慰撫して待遇を厚くしました。
 
六月丙戌(初五日)、成帝が張禹を丞相に任命し、安昌侯に封じました。
漢書外戚恩沢表』によると、諡号は節公です。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚戌(二十九日)、楚孝王劉囂が死にました。
劉囂は宣帝の子で、成帝の叔父に当たります。
 
漢書諸侯王表』によると、懐王劉芳(『漢書宣元六王伝(巻八十)』では「劉文」)が継ぎました。
 
[九] 『資治通鑑』からです。
かつて武帝が西域と通交した時、罽賓国(『資治通鑑』胡三省注によると、都は循鮮城で、長安から一万二千二百里離れています。西域都護の管理下には属していません)は自国が絶遠の地にあり、漢兵が来ることはできないと考え、一国だけ漢に帰服せず、逆にしばしば漢使を襲って物を奪ったり殺害しました。
久しくしてから、漢の使者文忠と容屈王の子陰末赴が共謀して罽賓国を攻め、その王(『資治通鑑』胡三省注によると、王の名は烏頭労です)を殺しました。
陰末赴が罽賓王に立てられます。
 
しかし後に漢の軍候趙徳が使者として罽賓国を訪ねた時、陰末赴との和を失ったため、陰末赴は鎖で趙徳を繋ぎ、副使以下七十余人を殺したうえで、漢朝廷に使者を送って謝罪の上書をしました。
元帝は罽賓が絶域にあるため、罽賓の上書を受理せず(または「罽賓の罪を問わず」。原文「不録」)、使者を県度(『資治通鑑』胡三省注によると、烏国西の地名。石山です)に放って国交を絶ちました。
 
成帝が即位してから、罽賓が再び使者を送って謝罪しました。
漢は使者を派遣して罽賓の使者を送り返すことで答礼にしようとしました。
杜欽が王鳳に言いました「罽賓王陰末赴は本来、漢によって立てられましたが、後になって突然畔逆(叛逆)しました。国の子民(人民)を擁させることほど大きな徳はなく(漢が陰末赴を国王に立てたことを指します。原文「徳莫大於有国子民」)、使者を捕えて殺すことほど大きな罪はありません(陰末赴が漢の使者を捕えて殺したことを指します。原文「罪莫大於執殺使者」)。恩に報いず誅を懼れないのは、自分が絶遠の地におり、(漢の)兵が至らないと知っているからです。求めることがある時は辞を低くし(有求則卑辞)、欲が無くなったら驕慢になり(無欲則驕慢)、結局、最後まで懐服(懐柔服属)できません。中国が蛮夷と通じて厚く遇し、要求を満足させるのは(愜快其求者)、土壌が近くて寇を為すからです。今、県度の阸(険阻な地)は罽賓が越えられるものではありません。彼等が(漢を)慕ったとしても(郷慕)、西域を安定させるには足らず、(漢に)附かないとしても、(彼等が)城郭(西域諸国)を危うくすることはできません。以前、彼等が自ら節に逆らい、西域に悪を曝したので、(漢は)国交を絶って道を通じなくしました。今、過ちを悔いて来ましたが、(王の)親属や貴人はおらず、奉献(貢物を献上すること)の者は皆、行賈(行商)の賎人です。貨物を流通させて売買をしたいから(欲通貨市買)、献(奉献)を名目にしているのです。よって(漢の)使者を煩わせて県度まで送り出しても、恐らく実を失って欺かれることになります。
使者を派遣して客を送るのは、寇害から防護したいからです。皮山(『資治通鑑』胡三省注によると、皮山国は長安から一万五千里離れています)から南に向かったら漢に属さない四、五の国を経由することになります。斥候の士百余人を五分し、夜間に刁斗(夜間に敲いて警護する道具)を打って自守しても(一晩は五更あります。百余人が一更ごとに交替で警護するという意味です)、まだしばしば侵盗されます(盗賊に襲われます)。驢畜(驢馬や家畜)に食糧を背負わせたら、諸国からの稟食(食糧の供給)を得てやっと満足させなければなりません(食糧を輸送する驢馬の飼料を諸国から徴収しなければなりません)。国によっては貧小なため食糧を提供できず、あるいは桀黠(凶暴狡猾)なためわざと供給しようとせず、強漢の符節を持ちながら、山谷の間で飢餓し、乞(乞うこと。も乞と同義です)しても得るものがなく、一二旬(十日から二十日)離れただけで人畜が曠野に棄捐されて(曠野に棄てられて。曠野で死んで)還れなくなります。また、大頭痛、小頭痛の山や赤土、身熱の阪を経由し、人の身を熱して色を無くさせ、頭痛嘔吐し、驢畜も同じようになります。更に三池盤、石阪道があり、狭い場所は一尺六七寸しかなく、しかし長さは径(道のり)三十里もあり、(山谷の)崢嶸(高く険しい様子)に臨んでその深さは測ることもできず、行く者は騎歩が互いに抱え合い、前後を縄索(縄)で引っ張り合い、こうして二千余里進んでやっと県度に至ります。畜(家畜。動物)が落ちたら、阬谷(渓谷)の半分に達する前に全て靡砕(粉砕)し、人が落ちたら、收視(死体を収めること)もできなくなります。その険阻危害は言い尽くすことができません。聖王は九州を分けて五服を制し、内を盛んにすることに務めて外に求めませんでした。今、使者を派遣し、至尊(天子)の命を奉じさせ、蛮夷の賈(商人)を送り、吏士の衆を労し、危難の路を渡り、頼りとするべき者(中原の者)を罷敝(疲弊)させて無用の者(遠方の蛮夷)のために働くのは、久長(長久)の計ではありません。既に使者の業(任務)が節を受けてしまいましたが、皮山に至ったら還らせるべきです。」
王鳳は杜欽の言を成帝に報告しました。成帝はこれに従います。
 
実際、罽賓の目的は賞賜と賈市(交易)によって利益を得ることで、漢に帰服するつもりはありませんでした。
この後、罽賓の使者が数年に一回、漢の朝廷を訪れました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
この年、山陽で石の中から火が生まれたため、陽朔に改元することにしました(翌年参照)
 
 
 
次回に続きます。

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