西漢時代253 成帝(十一) 『別録』『七略』 前26年

今回は西漢成帝河平三年です。
 
西漢成帝河平三年
乙未 前26
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、楚王劉囂が来朝しました。
劉囂は宣帝の子で、成帝の叔父に当たります。
 
二月乙亥(十六日)、成帝が詔を発し、劉囂の素行が純茂(善美)なので特別に優遇することを宣言して、劉囂の子劉勳を広戚侯に封じました。
漢書王子侯表』によると、劉勳の諡号は煬侯(または「陽侯」)です。

[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
丙戌(中華書局『白話資治通鑑』は「丙戌」を恐らく誤りとしています)、犍為郡で地震がありました。
山が崩れて江水を塞いだため、江水が逆流しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋八月乙卯晦、日食がありました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
当時、中祕書の多くが散亡していたため、成帝が謁者陳農を派遣して天下の遺書を求めさせました。
中祕書は宮廷の蔵書です。『資治通鑑』胡三省注によると、かつて武帝が藏書(蔵書)の策(記録)を作りました。蔵書は外と中に分けられており、外は太常、太史、博士の蔵、中は延閣、広内、祕室の府を指します。「中祕書」は延閣、広内、祕室に所蔵された書を指すと思われます。
 
遺書を集めてから、成帝が詔を発し、光禄大夫劉向に経伝、諸子、詩賦を校正させ、歩兵校尉(『資治通鑑』胡三省注によると、歩兵校尉は上林苑門の屯兵を管理します。武帝が置いた八校尉の一つです)任宏に兵書を校正させ、太史令(『資治通鑑』胡三省注によると、太常に属します)尹咸に数術(占卜)の書を校正させ、侍医(『資治通鑑』胡三省注によると太医令に属し、天子の左右に侍ります)李柱国に方技(方術、医術)の書を校正させました。
一冊の校正が終わるごとに劉向が篇目を並べて指意(主旨)をまとめ、目録にして成帝に提出しました。
 
劉向がまとめた目録は『別録』とよばれています。
哀帝時代、劉向の子劉歆が『別録』の内容を更に整理して「六略」に分類しました。六芸略(六芸は六経を指します)、諸子略、詩賦略、兵書略、術数略、方技略です。これに輯略(総論)を加えて『七略』としました。
劉向の『別録』と劉欣の『七略』は中国目録学の開始とされていますが、どちらも唐代に失われました。但し、『漢書芸文志』におおよその内容が保たれています。
漢書芸文志』は六略三十八種、五百九十六家、一万三千二百六十九巻を整理して書名を残しています成帝綏和二年・前7年に再述します)
 
[] 『資治通鑑』からです。
劉向は王氏の権位が盛んになりすぎていることを憂慮しました。
当時、成帝が『詩』『書』の古文に傾倒していたため、劉向は『尚書洪範』を元に上古から春秋六国(戦国)を経て秦、漢に至る符瑞、災異の記録を集め、事象の原因を探求し(推迹行事)、禍福に関係づけ、占験(占卜の兆しと結果)を明らかにし、内容によって分類し、それぞれに條目(篇目)をつけました。全十一篇で、『洪範五行伝論』と号します。
劉向はこれを成帝に提出しました。
成帝は劉向の忠精を知っており、王鳳兄弟の権勢を心配してこの論著を完成させたことも理解していましたが、王氏から政権を奪うことはできませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
黄河がまた平原で決壊し、済南、千乗に流れました。壊敗による損害は建始年間(成帝建始四年29年)の洪水の半分に及びました。
成帝は再び王延世と丞相史楊焉および将作大匠(『資治通鑑』胡三省注によると、「将作大匠」は秦から踏襲した官で「将作少府」といいました。宮室の建築を管轄します。西漢景帝時代に将作大匠に改名されました)許商、諫大夫乗馬延年(乗馬が氏です)を派遣し、協力して治水させました。
 
治水工程は六カ月で完成しました。
成帝は王延世に黄金百斤を下賜します。
 
治河(治水)の卒で平賈(平均の価格。ここでは報酬の意味です。下述します)を受けていない者は、姓名を記録して六カ月の外繇(辺境の徭役)に就いたことにしました(六カ月の外繇が免除されました)
漢書溝洫志』の注によると、政府が治水のために雇用した者には、当時の市場における一般的な雇用の賃金を与えました。これが「平賈(または「平価」)」です。一カ月に銭二千を与えたともいいます。
 
 
 
次回に続きます。