西漢時代260 成帝(十八) 昌陵邑 前19年

今回は西漢成帝鴻嘉二年です。
 
西漢成帝鴻嘉二年
壬寅 前19
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
春、成帝が雲陽、甘泉を行幸しました。
資治通鑑』胡三省注によると、甘泉宮は雲陽県にあります。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、博士が大射礼を行いました。
大射礼は射術を競う行事です。『資治通鑑』胡三省注によると、天子、諸侯、大夫、士にそれぞれ大射の礼があり、博士が行ったのは士の射礼に当たります。
 
尚、「大射礼」は『資治通鑑』の記述で、『漢書・成帝紀』では「博士が飲酒礼を行った」と書いています。「射礼」の儀式の中にも「飲酒礼」の過程があるので、同じことを指しています。
 
この時、雉が飛んで庭に止まり(原文「有雉飛集于庭」。「集」は本来、「鳥が木に止まる」という意味です。恐らくここは、「複数の雉が庭に集まった」のではなく「一羽の雉が庭に止まった」という意味です)、階段を登って堂上に来てから鳴きました。
その後、雉はまた太常、宗正、丞相、御史大夫、車騎将軍の府に止まり(集諸府)、更に未央宮承明殿の屋根の上に止まりました(集承明殿)
車騎将軍王音、待詔(『資治通鑑』胡三省注によると、経術によって官途に就き、待詔している者です。人名が寵で、姓はわかりません)等が上奏しました「天地の気とは似た者同士が応じ合うものです(以類相応)。人君への譴告はとても小さくても明らかです(現象は小さくても警告は明らかです。原文「甚微而著」)。雉は聴力に優れており(聴察)、先に雷声を聞くことができます。だから『月令』は(雉によって)気を記しています(原文「故『月令』以紀気」。『礼記月令』の季冬之月(十二月)に「雉雊」とあります。「雉雊」は「雉が鳴く」という意味です)。『経』は高宗の雊雉の異(雉が鳴いた変異)を記載して、禍を転じて福とする験(徴。効果)を明らかにしました商王朝の高宗が成湯を祀った時、雉が鼎の耳に止まって鳴きました。高宗はこの変異を戒めにして行動を正したため、災禍を除いて福をもたらすことができました。『尚書高宗肜日』に記述があります)。今回、博士が礼を行った日に雉が階段を通って堂に登り、万衆が睢睢として(仰ぎ見て)、連日、怪事に驚いています。(雉は)三公の府と太常、宗正といった宗廟骨肉(親族。皇族)を管理する官を経由して、その後、皇宮に入りました。このように宿留(停留)して人に告曉(告知)した内容は深刻切実です(具備深切)。人が語って戒め合ったとしても、これを越えることはありません。」
 
後に成帝が中常侍鼂閎を送って王音に詔を伝えさせました「聞くところによると、捕まえた雉は毛羽の多くが摧折(破損)されており、拘執のもの(人に捕まっていた雉)のようだという。人が為したのではないか(変異は人為的なものではないのか)?」
王音が答えて言いました「陛下はどうして亡国の語を話すのですか。誰が首謀して佞(佞諛)の計を為し、このように聖徳を誣乱したのでしょうか。左右に阿諛の者が多数いるので、臣(王音。私)(阿諛)するのを待たなくても充分足りています。公卿以下、位を保ち自分を守っているため、正言がありません。もしも陛下を覚寤(覚醒。悟ること)させたら、(陛下は)大禍が身(自分の身)に至ることを懼れ、臣下を深く責めて聖法によって縛り(縄以聖法)、臣音がまず誅されるはずです。自分を弁解する必要があるでしょうか(豈有以自解哉)
今、即位して十五年になるのに、継嗣(後継者)が立たず、日日、車を駕して外出し、失行(徳を失った行い)(遠方に)流れ聞こえており、海内がこれを伝えて京師より甚だしくなっています。外には微行(おしのび)の害があり、内には疾病の憂があり、皇天がしばしば災異を示し、人に変更(変化。改正)を欲しているのに、いつまでも改められません。天でも陛下を感動させることができないのに、臣子が何を望めるでしょう。ただ極言をもって死を待ち、命が朝暮(朝夕の間)にあるだけです。
もしもそうしなかったら(もし天の戒めを聞かなかったら。原文「如有不然」)、老母(成帝の母。王政君)がどうして居場所を得て、皇太后の地位を保てるでしょう(安得処所尚何皇太后之有)。高祖の天下は誰に委ねるのでしょうか。賢智の者と謀り、自分を制して礼を復し(原文「克己復礼」。『論語』の言葉です)、そうすることで天意を求めれば、継嗣を立てることができ、災変もまた消すことができます。」
 
[] 『漢書帝紀』からです。
成帝が詔を発しました「古の選賢は、意見を述べさせてから採用し(傅納以言)、功績によって明確に考査したから(明試以功)、官には廃事(滞った政務)がなく、下には逸民(隠居者。能力があるのに埋没した者)がなく、教化が流行し、風雨が時と和し、それによって百穀が成り、衆庶が業を楽しみ、全てが康寧になった。朕が鴻業(大業)を受け継いで十余年になるが、しばしば水旱疾疫の災に遭い、黎民(民衆)が頻繁に飢寒のために困窮している。それなのに礼義の興(振興)を望むのは、困難ではないか。朕が率導していないので、帝王の道は日に日に陵夷(衰退)している。これは招賢選士の路が鬱滞(停滞)して通っていないということであろうか。推挙しようとする者がまだ人を得ていないのであろうか(推挙した人材が相応しくないのか)。よって敦厚で行義(義行)があり、直言できる者を挙げよ。切言(直言)嘉謀(善計)を聞くことを望む。朕の不逮(及ばないこと。不足していること)を匡せ(正せ)。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
かつて元帝は倹約に努め、渭陵には民を遷さず、邑も造りませんでした元帝永光四年40年参照)
成帝は建始二年(前31年)に初陵の建設を始めました。これを延陵といいます。しかし鴻嘉元年(前20年)に霸陵曲亭南を気に入り、改めて陵墓の建設を始めました。これを昌陵といいます。
将作大匠解万年(解が姓氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、晋の唐叔虞の食邑が解にありました。晋国には解狐、解揚がいました)が陳湯を使って上奏し、初陵(昌陵)に民を遷して邑を造るように請いました。陵邑建設を自分の功績にして重賞を求めるためです。
上奏した陳湯は自分が率先して移住することを請いました。優先して美田宅(美田豪邸)を得るためです。
成帝は上奏に従い、昌陵邑を建設することにしました。
 
夏、郡国の豪桀で貲(財産)が五百万以上ある五千戸を昌陵に遷しました。
また、丞相、御史、将軍、列侯、公主、中二千石に冢地(墓地)と第宅(邸宅)を下賜しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
五月癸未(発六日)、杜郵に三つの隕石が落ちました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、中山憲王劉福の孫劉雲客を広徳王に立てました。
 
中山王は景帝の子劉勝が立てられました。
漢書景十三王伝(巻五十三)』と『漢書諸侯王表』によると、劉勝の後、哀王劉昌、穅王劉昆侈、頃王劉輔、憲王劉福と経由し、懐王劉循(劉脩)が継ぎましたが、劉循の死後、跡継ぎがいなかったため断絶しました。宣帝時代のことです。
今回、中山王・劉勝の子孫・劉雲客が広徳王に封じられました。諡号は夷王です。
しかし夷王にも跡継ぎがいなかったため、死後また国を廃されます。
 
尚、『資治通鑑』は劉雲客を「憲王(劉福)の孫」としていますが、『漢書・景十三王伝』では「憲王(劉福)の弟の孫利郷侯の子」としており、『漢書・諸侯王表』では「懐王劉循の従父弟の子」としています。従父弟は「父の兄弟の子で自分より年下の者」を指すので、懐王の父憲王の兄弟の子に当たります。劉雲客は更にその子(従父弟の子)と書かれているので、憲王の兄弟の孫に当たります。
『景十三王伝』の「憲王(劉福)の弟の孫利郷侯の子」とは一世代差があります。
 
『王子侯表下』を見ると、利郷侯は宣帝時代に中山頃王劉輔の子劉安(劉福の弟)が封じられています。諡号は孝侯です。その後、戴侯劉遂を経由して劉国(または「劉固」)の代で廃されています。
ここから『景十三王伝』の「憲王(劉福)の弟(劉安)の孫利郷侯」は劉国(または「劉固」)だとわかります。今回、広徳王に立てられた劉雲客は劉国の子のようです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、城陽劉雲(哀王)が死に、子がいなかったため国が廃されました。
 
城陽王は高祖の子斉王劉肥(悼恵王)の家系です。文帝の時代、斉王・劉肥の子劉章が城陽王に封じられました。これを景王といいます。
漢書諸侯王表』によると、劉章の後、共王劉喜、頃王劉延、敬王劉義、恵王劉武、荒王劉順、戴王劉恢、孝王劉景と続き、本年、劉雲が死んで一時途絶えました。
後に劉雲の弟(『漢書高五王伝(巻三十八)』では「劉雲の兄」)劉俚が改めて封王されますが、王莽によって廃されます。
 
 
 
次回に続きます。