西漢時代261 成帝(十九) 趙飛燕 前18年
今回は西漢成帝鴻嘉三年です。
西漢成帝鴻嘉三年
癸卯 前18年
夏四月、天下に大赦しました。
吏民が爵位を買えるようにしました。爵一級の値を千銭にしました。
大旱に襲われました。
後に長安の城壁を穿って灃水(または「豊水」。『資治通鑑』胡三省注によると、灃水は鄠県東南から出て北に向かい、上林苑を通って渭水に入ります)を中に引き入れ、邸宅内の大陂(大池)に水を注いで船を行き来させました。船には羽蓋(羽毛を編んで作った傘)を立て、四周に帷幕を張り、船を漕ぐ者に越歌を歌わせました。
成帝が王商の邸宅を訪ねた時、城壁を穿って水を引き入れているのを見て憎みましたが、心中に留めて何も言いませんでした。
後に成帝が微行(おしのび)で外出して曲陽侯・王根の邸宅を通りました。すると、園中に土山や漸台が造られており、建物は白虎殿に似ています。
成帝は怒って車騎将軍・王音を譴責しました。
これを聞いた成帝はますます怒り、尚書を送って司隸校尉と京兆尹を責問しました。成都侯・王商等の奢僭不軌(奢侈なうえ越権して法令を守らないこと)を知りながら姦猾を蔵匿し、阿諛追従して検挙・上奏せず、法を正さなかったという罪です。司隸校尉は三輔を、京兆尹は京邑(京師)を管理するので、長安での越権は二者の責任とされました。
成帝は更に車騎将軍・王音に策書を与えてこう伝えました「外家(外戚)がなぜ甘んじて禍敗を楽しむのだ(罰を受けて当然なのに、なぜ自ら刑を行って満足するのだ。原文「外家何甘楽禍敗」)。自ら黥・劓を欲し、互いに太后の前で戮辱して(辱めを受けて)慈母の心を傷つけ、国家を危うくさせて乱そうとしている。外家の宗族は強盛で、上(朕)の一身がしだいに衰弱して久しくなるが(寖弱日久)、今から一人一人に(刑罰を)施す(将一施之)。君は諸侯(王商、王根等)を招いて府舍(王音の家)で待機させよ。」
車騎将軍・王音は藁の蓆に坐って罪(刑)を請い、王商、王立、王根はそれぞれ斧質(斧と鑕。刑具)を背負って謝罪しました。
長い時間が経ってやっと赦されます。
但し、成帝は王氏を懼れさせることだけが目的で、元々誅殺するつもりはありませんでした。
秋八月乙卯(十五日)、孝景廟の北闕で火災がありました。
成帝は許皇后と班倢伃を寵愛していました。
以前、成帝が後庭で遊んだ時、班倢伃を同じ輦(車)に乗せようとしました。しかし班倢伃は辞退してこう言いました「古の図画を観ると、賢聖の君は皆、名臣が傍におり、三代(夏・商・周)の末主には嬖妾(愛妾)がいます。今、同輦(同乗)を欲するのは、これに近いのではありませんか。」
成帝は班倢伃を称賛して同乗をあきらめました。
これを聞いた王太后は喜んで「古には樊姫がおり、今は班倢伃がいる」と言いました。
班倢伃が侍者・李平という者を進めました。李平も幸を得て倢伃になり、衛姓を下賜されました。
班穉の子を班彪といい、その子が班固です。『漢書』は主に班固によって編纂されました。
『資治通鑑』に戻ります。
成帝は歌舞の者・趙飛燕を気に入り、招いて入宮させます。
趙飛燕は大幸を得ました。
趙飛燕には妹がいました。
趙飛燕の妹も招かれて入宮することになりました。その天性の容貌は極めて「醲粋」でした(姿性尤醲粋)。「醲」は「豊潤」「豊満」「豊艶」という意味、「粋」は「純粋」「清潔」「清純」という意味です。
成帝の左右の者が趙飛燕の妹を目にすると、皆、称賛の声を挙げました(嘖嘖嗟賞)。
淖方成は唾を吐いて「これは禍水です。火を滅ぼすのは確実です(此禍水也,滅火必矣)」と言いました。
火は五行の火徳に当たる漢を指します。火を滅ぼすのは水徳で、女性がもたらす禍を「禍水」といいます。趙飛燕姉妹によって漢が衰退することを予言しています。
しかし、当時の漢は火徳と位置付けてはいなかったはずです。
周は火徳の国といわれており、火を消すのは水なので、周を滅ぼした秦は自分の王朝を水徳と位置付けました。しかし秦が短命かつ暴虐だったため、張蒼は「秦には五行に則る資格が無い」と考え、漢が火徳の周を継いだ水徳の王朝であると主張しました。
これに対して、魯人の公孫臣が「漢は土徳に当たる」と主張し、土徳に応じて黄龍が現れると予言しました。黄色が土徳の色だからです。
五は土徳の数に当たるとされています。そのため、印文等は五文字に改められ、丞相の印には「丞相之印章」と刻まれ、諸卿や守、相の印文でも五文字に足りない場合は「之」が足されました。
漢が火徳とされるのは王莽登場以降の事です。
清代の『欽定四庫全書総目・子部五十三・小説家類存目一(巻百四十三)』は『飛燕外伝』を「小説家の言であって史部に入れるべきではない」としており、淖方成の言を収録した『資治通鑑』を「司馬公(司馬光)はこれを『通鑑』に記載した。(中略)『通鑑』の失(過ち)である」と批判しています。
『趙飛燕外伝』は以下にて紹介します。
『趙飛燕外伝』(前)
本文に戻ります。
許皇后も班倢伃も寵を失います。
冬十一月甲寅(十六日)、許皇后が廃されて昭台宮に住むことになりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、昭台宮は上林苑内にあります。
許皇后の姉・許謁等は全て誅殺され、親属は故郷の郡に帰されました。
『外戚伝』は許謁を平安剛侯の夫人としていますが、「平安剛侯」は恐らく「安平剛侯」の誤りです。
許皇后の呪詛事件が起きた時は、王章は既に死に、釐侯・王淵の代になっていました。
但し、王淵は平帝時代に死に、跡を継いだ懐侯・王買の代に王莽によって廃されるので、許皇后事件で刑を受けたのは許氏の家族だけだったようです。
成帝が班倢伃を審問すると、班倢伃はこう答えました「妾(私)は『死生には命(天命)があり、富貴は天によって決められる(死生有命,富貴在天)』と聞いています(『論語』の言葉です)。修正しても(身を修めて正しくしても)なお福を蒙っていないのに、邪欲を為して何を望むのでしょう。もし鬼神に知があるのなら、(鬼神が)不臣の愬(訴え)を受けることはありません(鬼神に知覚があるなら、陛下を呪詛するという願いを聞くはずがありません)。もし知がないようなら、これを愬して(訴えて)何の益になるでしょう(鬼神に知覚が無いのなら、呪詛しても無駄です)。だからそのようなことは為さないのです。」
成帝はこの答えを称賛して釈放し、黄金百斤を下賜しました。
しかし趙氏姉妹が驕慢で嫉妬深かったため、班倢伃は久しく後宮に留まったら危険が及ぶことになると考え、長信宮で王太后に仕えることを願いました。『資治通鑑』胡三省注によると、長信殿は長楽宮にあり、太后が住んでいます。
成帝はこれに同意しました。
広漢の男子・鄭躬等六十余人が官寺(官府)を攻めました。
鄭躬は囚徒を奪い、庫兵(倉庫の武器)を盗み、自ら山君と称しました。
次回に続きます。