西漢時代272 成帝(三十) 折檻 前12年(2)
今回は西漢成帝元延元年の続きです。
特進・安昌侯・張禹が平陵肥牛亭の地を求めました。
曲陽侯・王根が強く反対し、他の土地を張禹に与えるべきだと主張しました。肥牛亭の地は平陵(昭帝陵)寝廟の近くにあり、衣冠を出游する時の道になるからです。
漢代は毎月一回、高帝の衣冠を陵墓から出して、宗廟に運ぶという儀式がありました。これを「遊衣冠」といいます(西漢恵帝四年・前191年参照)。平陵は昭帝の陵墓なので、高帝以外の皇帝も衣冠を宗廟に運ぶ儀式があったようです。定期的に副葬する衣冠を交換していたのかもしれません。
成帝は王根の意見に従わず、肥牛亭の地を張禹に下賜しました。
この後、王根は成帝の寵を受けている張禹に嫉妬し、頻繁に誣告するようになります。
ところが成帝はますます張禹を敬って厚遇し、張禹が病を患う度に、起居(飲食等の生活)の状況を尋ねました。更には車駕(皇帝の車)が張禹の家を訪ねて見舞い、成帝自ら病床の張禹を拝しました。
張禹は頓首して恩に感謝します。
この時、張禹の小子にまだ官職がなかったため、張禹がしばしば小子に視線を送りました。
成帝はそれに気づき、張禹の床下で小子を黄門郎・給事中に任命しました。
張禹は家に住んだままでしたが、特進の立場で天子の師となりました。国家に大政(大事)がある度に、成帝は必ず張禹と相談して決議しました。
当時は吏民の多くが上書して災異の応(災異の出現)について語り、王氏の専政によって災異がもたらされていると厳しく非難しました。
成帝もそれらの意見に深く納得していましたが、まだ確信するには足りませんでした。
そこで車駕を張禹の邸宅に到らせ、左右の者を退けてから、直接、張禹に天変について尋ねました。この機に吏民が王氏について述べた事を張禹に示します。
張禹は自分が年老いており、子孫も幼弱で、そのうえ曲陽侯・王根と不和だったため、王氏の怨みを買うことを恐れてこう答えました「『春秋』が記載している日食や地震は、あるいは諸侯の相殺や、夷狄による中国への侵犯によって起きています。災変の意とは、深遠で見るのが難しいので、聖人は稀にしか命について話さず、怪神を語りませんでした。性と天道については、子貢の属(孔子の高弟・子貢のような者)でも聞くことができなかったのです(性命や天道については、孔子の高弟でも孔子から聞くことはありませんでした)。浅見の鄙儒(道理に通じていない儒者)が語ることならなおさらでしょう(孔子でも語らなかったのですから、鄙儒が語ることを信用する必要はありません)。陛下は政事を修め、善によってこれに応じ、下の者と福喜を共にするべきです。これが経義の意です。新学の小生が乱道して(妄りに語って)人を誤らせていますが、信用する必要はなく、経術によってこれを断つべきです。」
成帝はかねてから張禹を信愛していたため、この後、王氏に対する疑いを解きました。
後に曲陽侯・王根や諸王氏の子弟が張禹の言を聞き、皆喜んで張禹と親しく接するようになりました。
『資治通鑑』胡三省注はこう書いています。
「元帝の師・蕭望之と成帝の師・張禹はどちらも敬重された。しかし元帝は蕭望之の『許氏と史氏を疎遠にして弘恭と石顕を去らせる』という言を聞くことができず、成帝は張禹の言を聞いて王氏を疑わなくなった。その結果、蕭望之はこれが原因で身を殺し、張禹はこれによって目先の富貴を得た。漢祚(漢の皇位)の中衰は、実はここ(元帝と成帝)から始まったのである。
また、成帝の時代は吏民が王氏を強く批判したが、平帝時代の末には、王莽が新野の田(田地)を受け取らなかったことについて上書する吏民(王莽が土地を受け取ることを願う者)が四十八万七千五百七十二人にも及んだ。元帝と成帝の時代の吏民は漢に対してまだ忠を持っていたのに、平帝の時代の吏民が王氏に附いてしまったのはなぜだろうか。政がそこ(王莽)から出て久しいのに、人心がそれに従わないでいられるはずがない(政治の実権を握ったら人心を得られ、実権を失ったら人心を失うことになる)。国家を有す者は、これをよく見てほしい(原文「尚監茲哉」。『尚書・太甲下』の言葉です)。」
『資治通鑑』本文に戻ります。
公卿の前で朱雲が成帝に言いました「今の朝廷の大臣は、上は主を匡す(正す)ことができず、下は民の益とならず、皆、尸位素餐(官位に居るだけで何もせず、ただ俸禄を受け取っていること)しており、孔子が言う『鄙夫(卑賎な者。徳が無い者。卑怯者)と共に君に仕えてはならない。いつも失うことを恐れたら、何も為すことができない(「鄙夫不可與事君,苟患失之,亡所不至」。『論語』の原文は「鄙夫可與事君也與哉。其未得之也,患得之。既得之,患失之。苟患失之,無所不至矣」です。「鄙夫と共に君に仕えていいのだろうか。彼等は官位を得る前はそれを得られないことを恐れ、既にそれを得たら、失うことを恐れる。もし失うことを恐れたら、何も為すことができない」という意味です)』という状況です。臣は尚方の斬馬剣(尚方は少府の属官で、皇帝が使う器物を提供しました。『資治通鑑』胡三省注によると、斬馬剣は馬も斬れるほど鋭利な剣です)を賜り、佞臣一人の頭を断つことで、その他の者を激励することを願います。」
成帝が「誰だ?」と問いました。
朱雲は「安昌侯・張禹です」と答えます。
成帝が激怒して言いました「小臣が下にいながら上を謗り(居下訕上)、朝廷で師傅を恥ずかしめた。その罪は死罪に値し、赦されるものではない(罪死不赦)!」
御史が朱雲を捕えようとすると、朱雲は殿檻(宮殿の欄干)をつかんで抵抗しました。欄干が折れてしまいます(檻折)。
朱雲が叫んで言いました「臣は下って龍逄、比干(関龍逄は夏桀の臣、比干は商紂の臣です。どちらも諫言によって殺されました)に従い、地下で遊ぶことができるから満足だ(足矣)!しかし(忠臣がいなくなった)聖朝がどうなるのか分からない!」
御史が朱雲を連れ出そうとすると、左将軍・辛慶忌が冠を脱ぎ、印綬を解き、殿下で叩頭して言いました「この臣はもともと狂直が世に知られています。もしその言が是(正しい)なら、誅すべきではありません。その言が非だとしても、(狂直で知られているので)元から寛容であるべきです。臣は敢えて死をもって争います。」
辛慶忌は叩頭して血を流しています。
成帝の怒りが収まって処刑は取りやめとなりました。
後に殿檻(欄干)を直すことになりましたが、成帝はこう言いました「変えてはならない。元のまま補え(原文「因而輯之」。新しい欄干に交換するのではなく、破損した個所だけ補うという意味です)。そうすることで直臣を表彰する(以旌直臣)。」
この一件から「折檻」という言葉が生まれました。現在の日本では「厳しく懲らしめる。体罰を加える」という意味でも使われますが、本来は「厳しく諫言する」という意味です。
かつて呼韓邪単于は左伊秩訾王の兄の娘二人を寵愛していました。
長女は顓渠閼氏になって二子を生み、少女(妹)は大閼氏になって四子を生みました。
二人の子を年齢順に並べると、彫陶莫皋(大閼氏)、且麋胥(大閼氏)、且莫車(顓渠閼氏)、嚢知牙斯(顓渠閼氏)、咸(大閼氏)、楽(大閼氏)となります。
車牙単于は弟の囊知牙斯を左賢王にしました。
張放(成帝永始二年・前15年参照)は北地都尉に着任して数カ月で再び成帝に招かれて宮内に入り、侍中に任命されました。
王太后は成帝が微行(おしのび)や遊楽に耽る原因が張放にあると考えており、張放を封国に赴かせるように要求しました。また、かつて王鳳が推挙した班侍中(班伯)のような人材を寵遇するように諭しました。「以前語ったこと(前所道)」というのは、班侍中のような人材を用いることを指します。
成帝が謝罪して言いました「今から詔を奉じさせてください。」
成帝は張放をまた京師から出して天水属国都尉に任命しました。
成帝は少府・許商と光禄勳・師丹(『資治通鑑』胡三省注によると、師は古の音楽を掌る官で、官名が氏になりました)を光禄大夫(皇帝の近臣)に、班伯を水衡都尉に任命し、三人に侍中を兼ねさせ、全て秩を中二千石としました。成帝が東宮(王太后)を朝見する時は常に従わせます。
また、大政に及んだら三人から公卿に成帝の言葉を伝えさせました。
成帝は游宴に倦み始めていたため、再び経書の業を修めるようになりました。
成帝が態度を改めたため王太后は非常に喜びました。
この年、左将軍・辛慶忌が死にました。
次回に続きます。