西漢時代278 成帝(三十六) 淳于長の失脚 前8年(4)

今回も西漢成帝綏和元年です。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
衛尉侍中淳于長(王政君の姉の子)は成帝の寵を受けており、大いに信用されていたため、権貴が公卿を圧倒しました。外は諸侯、州牧、郡守と結び、賄賂や賞賜は鉅万(巨万)にも積もり、声色(音楽と女色。遊楽)をほしいままにしています。
 
許皇后(成帝の元皇后)の姉は龍雒思侯の夫人になりました。
龍雒思侯は韓宝といい、韓増(宣帝時代の大司馬車騎将軍)の子です。
漢書高恵高后文功臣表』によると、思侯韓宝は成帝鴻嘉元年(前20年)に死に、後嗣がいないため途絶えました。その後、元封元年に節侯韓共が韓宝の従父兄弟(父の兄弟の子)として封侯されています。但し、「元封」は武帝の年号なので、成帝の年号「元延」が正しいはずです。
漢書魏豹田儋韓王信伝(巻三十三)』を見ると、韓増は宣帝五鳳二年(前56年)に死んで安侯という諡号が贈られました。子の韓宝が継ぎましたが、韓宝に子がいなかったため国が廃されます。
成帝時代、功臣の後代に跡を継がせるため、韓増の兄の子韓岑(『高恵高后文功臣表』では「韓共」)を龍侯に封じました。
この年(成帝綏和元年8年)は、思侯韓宝は既に死に、節侯韓共(または「韓岑」)の代になっています。
 
資治通鑑』に戻ります。
は夫に死なれたため寡婦として一人で家に住んでいました。
淳于長は許と私通し、それを機に許を小妻(妾)にしました。
当時、元皇后許氏は廃されて長定宮に住んでいました。『資治通鑑』胡三省注によると、許皇后は昭台宮に住むことになりましたが(成帝鴻嘉三年18年)、一年余で長定宮に遷されました。林光宮の中に長定宮があります。
 
許氏は姉の許を通して淳于長に賄賂を贈り、婕妤の地位に戻ることを求めました。
淳于長は許氏から金銭、乗輿(車馬)、衣服、御物(器具)等、前後千余万銭に値する礼物を受け取り、許氏を左皇后に立てるように成帝を説得するという偽りの約束をしました。
 
が長定宮に入る度に淳于長は許に書を与えました。書には許氏を弄ぶ内容が書かれており、嫚易(侮辱)の言葉が並んでいます。
このような書信の往来と賄賂は何年も続きました。
 
当時は曲陽侯王根が輔政していましたが、病を患って久しくなるため、しばしば引退を乞いました(乞骸骨)
淳于長は外親外戚。王太后の姉の子)として九卿(衛尉)の位におり、序列でいえば、王根が引退したらその地位に代わる立場にいます。
侍中騎都尉光禄大夫王莽は心中で淳于長が成帝の寵を得ていることに嫉妬しており、秘かに情報を集めていました。
そこで王莽は王根に侍って看病した機会にこう言いました「淳于長は将軍が久しく病を患っているのを見て、心中で喜んでおり(意喜)、自分が代わって輔政することになると思って、既に衣冠(士大夫や貴族の子弟)に対して署置(人事)のことを議語(談論)しています(自分が政権を取ることになると思っているため、士大夫や貴族の子弟と今後の任官について話しています)。」
王莽は更に淳于長が犯した罪過(許皇后やその姉との関係)について詳しく話しました。
王根が怒って言いました「そのようであったのなら、なぜ報告しなかった!」
王莽が言いました「将軍の意を知らなかったので、今まで言うことができませんでした。」
王根が言いました「速く東宮太后宮)に報告しろ!」
王莽は王太后に謁見を求めて淳于長の驕佚(驕慢放縦)な様子を詳しく述べました。曲陽侯王根の地位に代わろうと欲していること、秘かに長定貴人(許氏。長定宮に住んでいます)の姉と通じたこと、賄賂として衣物を受け取っていること等です。
太后も怒って言いました「児(子供。あの子)はそのようなことまでしていたのですか(児至如此)!帝にこれを報告しに行きなさい!」
王莽は成帝に報告しました。
 
成帝は淳于長が王太后の親族だったため、免官はしましたが罪は裁かず(勿治罪)、封国(定陵侯国)に派遣しました。
 
以前、紅陽侯立が輔政の地位を得られなかった時(成帝元延元年12年)、淳于長が誹謗讒言したのではないかと疑いました。王立は常に淳于長を深く恨んでいます。
このことは成帝も知っていました。
淳于長が封国に行くことになった時、王立の嗣子(嫡長子)融が淳于長に車騎を要求しました。
資治通鑑』胡三省注によると、淳于長が封国に入ったら、今まで京師で使っていた車騎は無用になります。
 
淳于長はこれを機に、王融を通して多数の珍宝を王立に贈りました。
そこで王立は淳于長のために封事(密封した上書)し、淳于長を長安に留めるためにこう言いました「陛下は既に皇太后を理由にして文に託しました(詔で意見を表明しました)。誠に更に他の計があるべきではありません。」
成帝は淳于長が王太后の親族だったため、罪は裁かないということを詔で表明しました。罪を問わないのなら、封国に送り出す必要もない、というのが王立の意見です。
 
成帝は王立が淳于長を怨んでることを知っていたため、突然、淳于長のために進言した事を怪しみました。
そこで有司(官員)に命じて調査させます。
(官吏)は王融を逮捕しました。
王立は淳于長から賄賂を受け取ったことが漏れるのを恐れ、口を封じるために王融に自殺させました。
 
ところが成帝はますます大姦が存在するのではないかと怪しみ、ついに淳于長を逮捕して洛陽の詔獄に繋ぎました。そこで淳于長の罪が厳しく追及されます。
 
淳于長は長定宮(許氏)を弄んで侮辱したこと、左皇后に立てる謀をしたこと等を全て詳しく供述しました。
淳于長の罪は大逆不道に至り、獄中で死にます。
妻子で罪に坐した者は合浦に遷され、母(王政君の姉)は故郷の郡(魏郡元城)に帰されました。
 
成帝は廷尉孔光に符節を持たせて長定宮に派遣し、廃后(許氏)に薬を下賜しました。
許氏は自殺します。
 
丞相方進が王立を弾劾する上奏をしました「紅陽侯立は狡猾不道なので、獄に下すことを請います。」
成帝が言いました「紅陽侯は朕の舅(母の兄弟)なので、法を及ぼすのは忍びない。封国に赴かせる(遣就国)。」
翟方進は更に上奏して、王立の党友である後将軍朱博、鉅鹿太守孫閎を免官させました。
朱博、孫閎と元光禄大夫陳咸は皆、それぞれの故郷の郡に帰ります。
陳咸は廃錮(官途を絶たれること)されたと知って憂死しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
陳咸は王立の推挙で光禄大夫になりましたが、すぐ罷免されました(成帝元延元年12年参照)
漢書翟方進伝(巻八十四)』によると、翟方進は「後将軍朱博、鉅鹿太守孫閎、故(元)光禄大夫陳咸」の三人を王立の党友として弾劾し、免官して故郷に帰らせるように進言しています。
但し、陳咸が故郷に帰ったことは明記していますが、朱博と孫閎が帰ったかどうかは書いていません。
漢書薛宣朱博伝(巻八十三)』を見ると、「有司(官員)が王立の党友を上奏し、朱博も連座して免官された」としか書かれていません。
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「朱博は杜陵長安付近。宣帝陵があります)の人で、孫閎も京師の世家だった。陳咸は元は沛郡相県の人である。『漢書翟方進伝』によると、朱博と孫閎は免官され、陳咸だけが故郡(故郷の郡)に帰っている(『資治通鑑』本文では三人が故郷の郡に帰ったと書いているが、実際に故郷の郡に帰ったのは陳咸だけである)。」
 
資治通鑑』本文に戻ります。
翟方進は智能が余りあり、文法(法律)吏事(行政)にも精通しており、儒雅儒者の気風)によって縁飾していました。そのため、「通明相(通達英明な丞相)」と号され、成帝にも重んじられています。
 
また、翟方進は人主(皇帝)の微指(わずかな意思。見えていない考え)を探ることにも長けており、上奏する内容が成帝の意に合わないことはありませんでした。
淳于長が政治を行うようになったばかりの時は、翟方進だけが淳于長と交わっており、成帝の前で称賛推薦しました後に淳于長が成帝の寵を受けて権勢を握るようになると、翟方進以外の者も淳于長と親しく交わるようになりました)
今回、淳于長が大逆の罪に坐して誅されましたが、成帝は翟方進が信任する大臣重臣なので、淳于長との関係を隠して言及しませんでした。
しかし翟方進は内心で慚愧し、上書して引退を乞います(乞骸骨)
成帝が応えて言いました「定陵侯長は既にその辜(罪)に伏した。君は交通(交流)していたが、伝(『資治通鑑』胡三省注は『論語』としています)にはこうあるではないか『朝に過ちを犯しても夜に改めることができたら、君子はこれを許容する(朝過夕改,君子與之)。』君は何を疑うのだ。専心壹意(専心一意)して、医薬を怠ることなく、自分を保て(しっかり療養して健康を保ち、職務に復帰せよ。原文「毋怠医薬以自持」。翟方進は病を理由に辞職を求めたようです)。」
翟方進は起き上がって政務を再開しました。
 
翟方進がまた條奏(一つ一つ上奏すること)し、淳于長と深い関係にあった者の名を挙げていきました。
京兆尹孫宝、右扶風蕭育を始め、刺史二千石以上で罷免された者は二十余人に上ります。
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「孫宝と蕭育は能吏(有能な官吏)だったが、昇進を急いで求めたため、匪人(素行が悪い人。徳行がない人)と与して罪を得た。君子とは交わりを慎重にしなければならないものである。」
 
 
 
次回に続きます。