西漢時代282 成帝(四十) 劉秀の『七略』 前7年(3)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
王莽は中塁校尉・劉歆に材行(才能と徳行)があると判断したため、推挙して侍中にしました。劉歆はやがて光禄大夫に遷されて貴幸(顕貴な地位と皇帝の寵信)を得ます。
劉歆は劉秀に改名しました。
 
哀帝は再び劉秀に『五経』の典領(管理)を命じ、父・劉向の前業(成帝河平三年・前26年参照)を完成させました。
劉秀は群書を総合して『七略』を上奏します。
七略』には『輯略』『六芸略(六芸は六経を指します)』『諸子略』『詩賦略』『兵書略』『術数略』『方技略』があり、筆頭の『輯略』は群書の総要です。
資治通鑑』胡三省注によると、「詩賦」は戦国時代の屈原、荀卿から西漢の揚雄等に及ぶ作品を対象にしています。「兵書」は権謀、技巧、形勢、陰陽の書です。「術数」は天文、歴譜、五行、蓍亀・雑占・形法(各種の占。形法は風水や骨相を指します)の書です。「方技」は医経(医術)、経方(薬方)、房中、神仙の書です。
 
六略は更に三十八種に分けられ、五百九十六家、一万三千二百六十九巻が記録されています。
このうち、「諸子」に関しては九流(九派)に分けました。儒、道、陰陽、法、名、墨、従横(縦横)、雑、農です。
劉秀はこう考えました「九家は全て王道が既に衰微して諸侯が力政(武力で治めること)している時代に起きた。当時の君主は好悪(好き嫌い)が大きく異なったため、九家の術が次々に出現して並び立ち(蠭出並作)、それぞれが一端を主張し、自分が好む学説を崇め、それによって馳説(遊説)して諸侯の賛同を得たのである。諸子の言は異なるが、水と火が相滅しても相生するのと同じだ(『資治通鑑』胡三省注によると、水が火を滅ぼしても木が生まれ、木はまた火を生みます)。仁と義、敬と和は相反することだが、どちらも相成ることでもある。『易』にはこうある『天下の人が同じ場所に帰ったとしても通る道は異なり、道理が一致していても百の慮(思考)が存在する(天下同帰而殊塗,一致而百慮)。』今、異家の者が自分の長(長所)を推しているが、深く探求してその趣旨を明らかにすれば、確かに蔽短(欠点)はあるものの、要帰(要点)を総合したものはやはり『六経』の支(支流)と流裔(末流)である(深く探求して主旨を明らかにすれば、諸子の主張も全て『六経』の支流や末流に属すものだと分かる)。もし彼等が明王聖主に遇い、彼等の主張を折中(異なる主張を調整して適切な考えにすること)できたら、皆、股肱(君主を助ける重臣の材(才)となる。仲尼孔子はこう言った『都邑が礼を失ったら野で礼を求める(礼失而求諸野)。』今は聖(聖人)から離れて久遠となり、道術が欠廃して新たに求められる場所がないが、彼等九家の者は、野より勝っているのではないか。もし『六芸』の術を修めることができて、その後、この九家の言を観て、短所を捨てて長所を取れば、万方の略(各種の方略)に精通できるだろう。」
 
[十三] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
河間恵王劉良は献王(河間王の祖。下述します)の品行を修めることができました。
太后が死んだ時も礼に従って喪に服します。
そこで、哀帝が詔を発しました「河間王良は太后の三年の喪に服した。宗室の儀表(礼儀の見本)とし、万戸を益封する。」
 
河間王は景帝の子劉徳(献王)から始まります。
漢書景十三王伝(巻五十三)』と『漢書諸侯王表』によると、献王・劉徳の後、共王劉不害(または「劉不周」)、剛王劉堪(または「劉基」)、頃王劉授(または「劉緩」)、孝王劉慶と継承し、元帝時代に劉元の代で廃されました元帝建昭元年38年参照)
しかし成帝が孝王劉慶の子で劉元の弟にあたる劉良を改めて封王しました(成帝建始元年32年参照)。これが恵王です。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
以前、董仲舒武帝にこう言いました「秦は商鞅の法を用いて井田(井田制)を除き、民が(土地の)売買をできるようにしたので、富者は田が阡陌(あぜ道)を連ね(多数の田地を領有し)、貧者は立錐の地(錐を立てる程度の狭い土地)もなくなりました。邑には人君の尊があり(邑には国君と同じように尊重されている人がおり)、里には公侯の富があります(里には公侯と同じように富裕な者がいます)。小民がどうして困窮しないでしょう。確かに古の井田法を突然実行するのは困難ですが、少しでも古に近付け、民の名田(私有の田地)を制限して不足している者を救済し、幷兼(兼併)の路を塞ぐべきです。また、奴婢を去って専殺の威(自由に奴婢を殺す権威、特権)を除き、賦斂(税)を薄くして繇役を省きます。こうして民力を休ませれば(以寬民力)、その後、善く治めることができるでしょう。」
 
哀帝が即位してから師丹も建言しました「今は累世(代々)承平(泰平)となり、豪富吏民の訾(財産)は鉅万(巨万)を数えますが、貧弱な者はますます困窮しているので、いくらかの限(制限)を作るべきです。」
哀帝は群臣に討議させました。
丞相孔光、大司空何武が上奏しました「諸侯王から列侯、公主は名田にそれぞれ限度を設け、関内侯、吏民の名田は皆、三十頃を越えず、奴婢は三十人を越えず、期限を満三年として、犯した者は没して官に入れることを請います(原文「没入官」。財産を没収して政府に入れる、または罪を犯した者を官奴に落とすという意味です)。」
 
当時は田宅や奴婢の価値が下がっていたため(または「この政策によって田宅や奴婢の価値が下がったため」。原文「時田宅、奴婢賈為減賎」)、貴戚近習(皇帝の近臣)は皆、便(利)がないと考えました。
そこで哀帝詔書を発し、「とりあえず見送ることにする(且須後)」と言って上奏を却下しました。
 
これとは別に哀帝が詔を発しました「斉の三服官(皇帝や貴人の服を作る官署)や諸官(三服官以外の服を作る官署)が織る綺繡は完成が困難で(織綺繡難成)、女紅女工を害す物なので、全て止めて輸送をなくす(皆止無作輸)。任子令および誹謗詆欺法を除く(『資治通鑑』胡三省注によると、二千石以上の官吏で三年以上政務に就いた者は、同母兄弟か子の一人(同産若子一人)を郎に任命できました。これを「任子令」といいます。しかし徳によって選抜されるわけではないため、今回、廃止されました。「誹謗詆欺法」は誹謗に対する法規制です)。掖庭の宮人で年が三十以下の者は後宮から)出して嫁がせる。官奴婢で五十以上の者は免じて庶人とする。三百石以下の吏の俸を増やすことにする。」
 
以上は『資治通鑑』の内容です。『漢書哀帝紀』と『漢書食貨志上』は少し異なるので、列記します。
まずは『漢書哀帝紀』です。
哀帝が言いました「制節謹度(節制して度を謹むこと)によって奢淫を防ぐのは、政を為す者が優先することであり、百王の不易(不変)の道である。諸侯王列侯公主二千石の吏および豪富の民は多くの奴婢を養い、田宅に限りがなく、民と利を争っている。そのため百姓は失職し、重困不足している。よって限列(禁制に関する条例を作ること)について議せ。」
有司(官員)が條奏(一つ一つ上奏すること)しました「諸王列侯は国内に名田を得ることができ、長安にいる列侯および公主の県道の名田、関内侯と吏民の名田は全て三十頃を越えてはならないことにします(諸王と列侯は「名田国中」を得ることができ、長安にいる列侯および公主は「名田県道」を得ました。『漢書』の注によると、「名田国中」というのは、諸侯が自国内にもつ私有の田地です。諸侯は国内の税収を得る他に、三十頃の私田をもつことが許されました。但し、もし諸侯が自国にいながら他県に名田をもったら、二両の罰金が科されました。諸侯が自国に帰らず、長安にいる場合は、自国以外の県道で名田を得ることが許されました。公主も同じです。その場合の田地も三十頃以内とされました)
諸侯王の奴婢は二百人、列侯公主は百人、関内侯吏民は三十人とします。但し、年が六十以上と十歳以下は数に入れません。
賈人は皆、名田を得ることも吏になることもできず、犯者は律によって論じます。
諸名田や養う奴婢が品(基準)を越えたら、全て没収して県官(政府)に入れます(皆没入県官)
斉の三服官や諸官が織る綺繡は完成が困難で、女紅(女工)を害す物なので、全て止めて輸送もなくします。
任子令および誹謗詆欺法を除きます。
掖庭の宮人で年が三十以下の者は(後宮から)出して嫁がせます。官奴婢で五十以上の者は免じて庶人とします。
郡国に禁じて名獣を献上できなくします。
三百石以下の吏の奉(俸)を増やします。
吏で残賊(惨酷)酷虐の者を考察し、即時退けます(以時退)。有司は赦前(大赦)の往事を検挙してはなりません(有司無得挙赦前往事)
博士弟子の父母が死んだら寧(服喪のための休暇)を三年与えることにします。」
 
漢書食貨志上』はこう書いています。
哀帝が即位してから、師丹が輔政して建言しました「古の聖王で井田を設けなかった者はなく、その後、政治が安定しました(治迺可平)。孝文皇帝は亡周秦による兵革(戦争)の後を受け継ぎ、天下が空虚となっていたので、農桑を勧めることに務め、節倹によって帥(見本)となりました。民が充実し始めた時で、まだ并兼(兼併)の害がなかったので、民田および奴婢における限(制限)を作らなかったのです。
しかし今は累世(代々)承平(泰平)となり、豪富吏民の訾(財産)は鉅万(巨万)を数えているのに、貧弱の者はますます困窮しています。君子が政を為す時は、因循(旧法に則ること)を貴んで改作(改革)に慎重であるものですが(貴因循而重改作)、しかしそれでも改(改革)があるのは、急務を救うためです。全てを変える必要はありませんが(亦未可詳)、いくらか限(制限)を作るべきです(宜略為限)。」
成帝はこの意見を議論させました。
丞相孔光、大司空何武が上奏して請いました「諸侯王列侯は国内に名田を得ることができ、長安にいる列侯と公主の県道の名田および関内侯と吏民の名田は全て三十頃を越えてはならないことにします。諸侯王の奴婢は二百人、列侯公主は百人、関内侯吏民は三十人とします。期間を満三年とし、犯した者は没して官に入れます。」
当時は田宅や奴婢の価値が下がっていたため、丁氏や傅氏で用事している者(政事を行っている者)や董賢のような隆貴な者は皆、便(利)がないと考えました(実際は、董賢が哀帝の寵臣になるのは後の事です)
そこで哀帝詔書を発し、「とりあえず見送ることにする(且須後)」と言って上奏を却下しました。
哀帝時代は宮室苑囿府庫の蓄えが既に増え、百姓の訾(財産)は文景時代に及びませんでしたが、天下の戸口は最も盛んになりました。
 
 
 
次回に続きます。