西漢時代283 成帝(四十一) 傅喜 前7年(4)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
哀帝が未央宮で酒宴を開くことにしました。内者令(『資治通鑑』胡三省注によると少府に属します。宦者が担当し、宮中の布帳や諸衣物を管理しました)が傅太后のために幕を張り(原文「張幄」。太后は席ごとに幕が張られたようです)、座席を太皇太后(王政君)の席の傍にしました。
大司馬王莽が酒席の確認をした時、内者令を譴責して言いました「定陶太后(傅太后は藩妾に過ぎない(「藩妾」を直訳すると「諸侯王の妾」ですが、定陶太后元帝の昭儀でした。子の劉康が定陶王になったので、定陶太后と呼ばれています。ここでいう「藩妾」というのは、諸侯王の母を意味するようです)。なぜ至尊太皇太后と並ぶことができるのか!」
王莽は傅太后の座席を撤去して場所を改めました。
これを聞いた傅太后は激怒して酒宴に参加しませんでした。王莽を深く怨恨します。
そのため、王莽は再び引退を乞いました(復乞骸骨)
 
秋七月丁卯(初一日)哀帝は王莽に黄金五百斤、安車駟馬(四頭の馬と坐って乗る車)を下賜し、大司馬の官を免じて家に帰らせました(罷就第)
 
前漢前漢孝哀皇帝紀(巻第二十八)』では、王莽の罷免を「七月丁巳」としています。しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「七月は丁卯朔なので丁巳の日はない。『前漢紀』の「丁巳」は誤りである」と解説しています。
また、『漢書百官公卿表下』を見ると、「大司馬」の欄では「十二月丁卯」に大司馬王莽が免官され、「庚午」に左将軍師丹が大司馬になっていますが、「大司空」の欄では「十月癸酉」に大司馬師丹が大司空になっています。師丹が十二月に大司馬になるのなら、十月に大司馬から大司空にはなれないので、月に誤りがあります。
 
資治通鑑』本文に戻ります。
公卿大夫の多くが引退した王莽を称賛しました。
哀帝は王莾に恩寵を加え、中黄門を置いて王莽の家に仕えさせました。また、十日ごとに一餐を下賜します。
 
哀帝が詔を下し、曲陽侯王根、安陽侯王舜(王音の子)、新都侯王莽、丞相孔光、大司空何武の邑戸を増やしました。
漢書哀帝紀』と『資治通鑑』胡三省注によると、曲陽侯王根はかつて大司馬として社稷の策を建てたので哀帝を成帝の後継者に立てるように建議したことを指します)、二千戸を益封されました。
太僕安陽侯王舜は以前、哀帝を輔導(教導)して旧恩があったため、五百戸を益封されました。
丞相孔光と大司空汜郷侯何武はそれぞれ千戸を益封されました。
王莽は三百五十戸を益封されました。
 
漢書何武王嘉師丹伝(巻八十六)』によると、何武は大司空になった時に氾郷侯に封じられました。氾郷は琅邪の不其(地名)にあります。しかし哀帝が即位して大臣を褒賞した時、南陽犨の博望郷を氾郷侯国に改めました。
 
王莽は特進(三公の下、諸列侯の上です)給事中となり、毎月朔(一日)と望(十五日)に朝見することになりました(朝朔望。朝見の礼は三公と同等とされます。
 
哀帝は紅陽侯王立を京師に呼び戻しました。
王立は淳于長の事件に関与したたため、前年、封国に送られていました。
 
太后の従弟に当たる右将軍傅喜は学問を好んで志行(大志と徳行)がありました。
太后の父には傅子孟、傅中叔、傅子元、傅幼君という四人の弟がいたことは書きました。傅喜は傅子孟の子です。
 
王莽が大司馬から退いたため、衆庶(民衆)は望みを傅喜に寄せました。しかし傅喜は大司馬の人選から外されます。
以前、哀帝が官爵を外親外戚に与えた時、傅喜だけは謙譲して病と称しました。また、傅太后が政事に関与するようになると傅喜はしばしば諫言しました。
そのため、傅太后は傅喜に輔政させることを欲しませんでした。
 
庚午(初四日)、左将軍師丹を大司馬に任命して高郷亭侯に封じました。
資治通鑑』『前漢前漢孝哀皇帝紀(巻第二十八)』では「高郷亭侯」ですが、『漢書何武王嘉師丹伝(巻八十六)』『外戚恩沢侯表』では「高楽侯(節侯)」となっています。
 
傅喜には黄金百斤を下賜し、右将軍の印綬を返上させ、光禄大夫として養病させました。
光禄勳淮陽の人彭宣を右将軍に任命します。
 
大司空何武、尚書唐林がそろって上書しました「傅喜は行いに義があり修身して廉潔で(行義修潔)、忠誠を抱いて国を憂いる内輔の臣(内朝輔弼の臣)です。今、寝病(病で寝込むこと)を理由に一旦にして(封国に)送り帰されましたが、衆庶が失望して皆こう言っています『傅氏は賢子なのに論議が定陶太后に合わなかったため退けられた。』百寮(百官)で国のためにこれを恨まない者はいません。忠臣は社稷の衛(守り)です。魯は季友によって乱を治め、楚は子玉によって重を軽くし(楚は子玉の死によって国が軽視されました。楚王が子玉を殺したため、晋文公が喜びました)、魏は無忌(信陵君)によって衝(強敵)を折り、項項羽は范増によって亡を存(存続)させました(范増によって存亡が決まりました)。百万の衆は一賢に及びません。だから秦は千金の賄賂を使って廉頗を離間し、漢は万金を散じて亜父(范増)を疎遠にさせたのです。傅喜が朝(朝廷)に立てば、陛下の光輝となり、傅氏の廃興となります(傅喜を用いるかどうかが傅氏の興廃を左右します)。」
哀帝も傅喜を重視していたため、暫くして再び朝廷に招いて用いました。
 
[十六] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
建平侯杜業が上書して曲陽侯王根、高陽侯薛宣、安昌侯張禹を誣告し、朱博を推挙しました。
哀帝は幼い頃から王氏の驕盛を聞いており、心中で好意を抱いていませんでしたが、即位したばかりだったため、暫くは王氏を優遇していました。
杜業が上書して一月余経ってから、司隸校尉解光が上奏しました「曲陽侯は先帝の山陵が完成する前に、掖庭の女楽五官(『資治通鑑』胡三省注によると、五官は官名で、三百石に相当しました)殷厳、王飛君等を公けに聘取(招いて娶ること)し、酒宴を開いて歌舞を披露しました。王根の兄(王商)の子成都王況も、元掖庭の貴人を聘取して妻にしました。どちらも人臣の礼がなく、大不敬で不道の罪に当たります。」
哀帝が言いました「先帝は王根と王況父子を遇してとても厚かった。しかし今、恩に背いて義を忘れた。」
王根はかつて社稷の策を建てたため哀帝が成帝の後嗣になることを支持しました)、刑は与えず封国に帰らせました。
王況は免官して庶人に落とし、故郷の郡(魏郡元城)に帰らせました。
王根と王況の父王商が推挙して任官された者も全て罷免されました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
九月庚申(二十五日)地震がありました。京師から北辺の郡国三十余カ所で城郭が崩れ、四百余人が圧死しました。
 
哀帝が災異について待詔李尋に意見を求めました。
李尋が答えて言いました「日(太陽)というのは衆陽(陽性の事物)の長、人君の表(象徴)です。君が道を修めなかったら日がその度(常態。正常な姿)を失い、晻昧(暗黒)として光がなくなります。最近の日は特に精がなく、光明が侵奪されて色を失い、邪気の珥(珥は太陽の周りに現れる模様で、蜺は虹の周り薄く見える副虹です)がしばしば作られています。小臣(私)は内事(宮中の事)を知りませんが、日を窺って陛下を視るに、志操が始初(即位当初)より大きく衰えています。陛下が乾剛(剛健)の徳を採り、志を強くして度(法度。原則)を守り、女謁(寵妃の請い)や邪臣(の意見)を聴く態(姿)がなく、諸保阿(保母)や乳母の甘言卑辞の託(請い)を断って聴かないことを願います。努力して大義に勉め(勉強大義、小さくて忍び難いことを絶ち外戚による請願等、拒否しがたい小事も拒否し。原文「絶小不忍」)、甚だやむを得ない場合は、貨財を使って外戚・近臣に)下賜することはできますが、私的に官位を与えてはなりません。それは誠に皇天が禁じることです。
臣が聞くに、月とは衆陰(陰性の事物)の長で、妃后大臣諸侯の象(象徴)です。最近、月がしばしば変異を為しました。これは母后が政事に関与して朝廷を乱しており、陰陽がともに傷ついて双方の便となっていないからです。外臣(私)は朝事(朝廷の事)を知りませんが、天文がこうなっているので、近臣は既に頼りにならない(已不足杖)と心中で信じています。陛下が自ら賢士を求めて、悪とする者(邪佞の人)を強くさせず、そうすることで社稷を崇めて本朝を尊く強大にすることを願います。
臣が聞くに、五行は水を本(根本)とします(『資治通鑑』胡三省注によると、水は天一が生んだとされます。天一は泰一を指すようです)。水は準平(平面を測量する器具)となります。王道が公正修明なら、百川が治まり(百川理)、落脈(経絡と血脈。脈絡)が通じます。党に偏って綱(正道。法則)を失ったら、溢れ出て禍敗となります(涌溢為敗)。今、汝(汝水と潁水)が溢れて流れ出しており、雨水と並んで民の害となっています。今この時の状況はいわゆる『百川が沸き立つ(百川沸騰)』というものであり、咎は皇甫卿士の属外戚を指します。『詩経小雅十月之交』にある「皇父(皇甫)卿士」を引用しています)にあります。陛下が外親の大臣を少しでも抑えることを願います。
臣が聞くに、地道(大地の特性)とは柔静であるのが陰の常義です。最近、関東の地がしばしば震えました。陽を崇めて陰を抑えることに務め、それによって咎から救い、志を固くして威(威信)を建て、私道を閉絶して英雋(英俊)を抜擢し、職を全うできない者を退け、こうして本朝を強くするべきです。本が強ければ精神が衝(強敵。危害)を折りますが、本が弱かったら殃(禍)を招いて凶をもたらし、邪謀に侵されることになります。聞いたところでは、かつて淮南王(劉安)が謀を為した時、難とした者は汲黯だけで(淮南王は汲黯だけを恐れました)(丞相の)公孫弘等でも語るに足りないと判断しました武帝元狩元年122年参照)。公孫弘は漢の名相で、今においては比べられる者がいないのに、それでも軽視されたのです。弘の属(公孫弘のような者)がいなかったらなおさらでしょう。よって、朝廷に人がいなかったら賊乱(賊臣、乱臣)に軽視されるというのは、自然の道(道理)なのです。」
 
漢書眭両夏侯京翼李伝(巻七十五)』によると、哀帝は李尋の言に従いませんでしたが、その内容には納得したため、非常の事がある度に李尋に意見を求めました。
李尋の見解はしばしば的中しました。
 
 
 
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