西漢時代290 哀帝(五) 馮太后事件 前6年(4)
哀帝が杜業の言を採用して朱博を招きました。
朱博は成帝綏和元年(前8年)に罷免されています。
『漢書・杜周伝(巻六十)』によると、成帝が死んで哀帝が即位してから、杜業が上書しました。要約すると「王氏が代々権勢を握って久しくなり、朝廷には骨骾(剛健実直)の臣がおらず、宗室諸侯は微弱で繋囚(囚人)と変わりがなく、佐史より上の者は大吏(大官)に至るまで、皆、権臣の党になっている。高陽侯・薛宣や安昌侯・張禹が朝廷を惑乱している。その中において、朱博は忠信勇猛で材略(才略)が不世出(非凡。稀少)であり、国家にとって雄俊な宝臣なので、皇帝の左右に置くべきである」という内容です。
哀帝に召された朱博は家を出て官界に復帰し、光禄大夫になりました。やがて京兆尹に遷ります。
かつて元帝が馮昭儀を寵愛して劉興が生まれました。
中山王・劉興(孝王)は成帝綏和元年(前8年)に死に、子の劉箕子が中山王を継ぎました。
中山王・劉箕子は幼い頃から「眚病」がありました。
服虔は「身(体)が全て青くなる病である」としており、蘇林も「名を肝厥といい、発病した時に脣(唇)口や手足の十指甲(十本の指の爪)が全て青くなる」と解説しています。
しかし顔師古は「眚は青という字にはならないので、服虔と蘇林の説は誤りである」としています。
張由は以前から狂易病(発狂して常態を失う病)がありました。
中山国に行った時も、発病して怒り出し、中山国から去って西の長安に帰ってしまいました。
尚書が張由を簿責(文書に書かれた罪状を一つ一つ譴責すること)し、勝手に中山国から去った状況を調べたため、張由は恐れて中山太后(馮太后)を誣告し、中山太后が哀帝と傅太后を呪詛していると訴えました(馮太后が皇帝と傅太后を呪詛していたから中山国から去ったと偽りました)。
しかし数十日経っても結果が出ないため、改めて中謁者令・史立(姓が史、名が立です)に調査を命じました。
史立は傅太后の指示を受け、この機会に封侯されることを望んだため、馮太后の妹・馮習と弟の婦人・君之を追求しました(『漢書・外戚伝下』には「寡弟婦・君之」とあります。馮太后の弟は既に死んでいたため、寡婦の君之が追及されました)
史立の厳しい取り調べによって死者が数十人に上ります(拷問を受けたようです)。
死者は十七人に上り、人々で憐れまない者はいませんでした。
すると傅太后が激怒してこう言いました「帝が司隸を置いたのは、主に私を監察するためですか!馮氏の反事(謀反)は明白です。故意に擿抉(あらさがし)して私の悪を宣揚したいのなら、私はそれに坐して当然です(我当坐之)!」
張由は最初に馮氏の謀反を告発した功績によって関内侯の爵位が下賜され、史立も中太僕に抜擢されました。
劉箕子は哀帝死後、皇帝に迎えられて平帝となり、劉衎に改名します。
次回に続きます。