西漢時代290 哀帝(五) 馮太后事件 前6年(4)

今回で西漢哀帝建平元年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
哀帝が杜業の言を採用して朱博を招きました。
 
朱博は成帝綏和元年(前8年)に罷免されています。
漢書杜周伝(巻六十)』によると、成帝が死んで哀帝が即位してから、杜業が上書しました。要約すると「王氏が代々権勢を握って久しくなり、朝廷には骨骾(剛健実直)の臣がおらず、宗室諸侯は微弱で繋囚(囚人)と変わりがなく、佐史より上の者は大吏(大官)に至るまで、皆、権臣の党になっている。高陽侯薛宣や安昌侯張禹が朝廷を惑乱している。その中において、朱博は忠信勇猛で材略(才略)が不世出(非凡。稀少)であり、国家にとって雄俊な宝臣なので、皇帝の左右に置くべきである」という内容です。
 
哀帝に召された朱博は家を出て官界に復帰し、光禄大夫になりました。やがて京兆尹に遷ります。
 
冬十月壬午(二十三日)哀帝が朱博を大司空に任命しました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
かつて元帝が馮昭儀を寵愛して劉興が生まれました。
劉興は元帝建昭二年(前37年)に信都王に立てられ、成帝陽朔二年(前23年)に中山王に遷されました。
中山王劉興は当時、定陶王だった劉欣と共に成帝の後継者候補に選ばれましたが、最後は劉欣が太子になりました。これが哀帝です。
中山王劉興(孝王)は成帝綏和元年(前8年)に死に、子の劉箕子が中山王を継ぎました。
 
中山王劉箕子は幼い頃から「眚病」がありました。
「眚病」について『漢書外戚伝下(巻九十七下)』に注釈があります。まず孟康は「眚は災眚(災難。禍患)の眚(災難、疾苦の意味です)で、妖病である」としています。
服虔は「身(体)が全て青くなる病である」としており、蘇林も「名を肝厥といい、発病した時に脣(唇)口や手足の十指甲(十本の指の爪)が全て青くなる」と解説しています。
しかし顔師古は「眚は青という字にはならないので、服虔と蘇林の説は誤りである」としています。
中華書局の『白話資治通鑑』は「眼病(目の病)」と訳しており、商務印書館『古代漢語詞典』も目の病としています。
 
劉箕子の祖母太后元帝の馮昭儀。中山国の太后です)は自ら劉箕子を看病し、しばしば祈祷して病災を除こうとしました。
 
哀帝も中郎謁者張由を派遣して劉箕子を医治させました。
謁者は皇帝の近侍です。『資治通鑑』胡三省注によると、常侍謁者(比六百石)、給事謁者(四百石)、灌謁者郎中(比三百石)がおり、中郎謁者は灌謁者郎中を指すようです。
 
張由は以前から狂易病(発狂して常態を失う病)がありました。
中山国に行った時も、発病して怒り出し、中山国から去って西の長安に帰ってしまいました。
 
尚書が張由を簿責(文書に書かれた罪状を一つ一つ譴責すること)し、勝手に中山国から去った状況を調べたため、張由は恐れて中山太后(馮太后を誣告し、中山太后哀帝と傅太后を呪詛していると訴えました(馮太后が皇帝と傅太后を呪詛していたから中山国から去ったと偽りました)
かつて傅太后も馮太后と並んで元帝に仕えていたため、遡って怨みを抱きました。そこで御史丁玄を派遣して調査させます。
しかし数十日経っても結果が出ないため、改めて中謁者令史立(姓が史、名が立です)に調査を命じました。
資治通鑑』胡三省注によると、中謁者令は本来、中宮謁者令といい、宦者(宦官)が担当しました。
 
史立は傅太后の指示を受け、この機会に封侯されることを望んだため、馮太后の妹馮習と弟の婦人君之を追求しました(『漢書外戚伝下』には「寡弟婦君之」とあります。馮太后の弟は既に死んでいたため、寡婦の君之が追及されました)
史立の厳しい取り調べによって死者が数十人に上ります(拷問を受けたようです)
史立が馮太后を誣告する上奏を行いました「(馮太后は)祝詛(呪詛)を行い、上(陛下)を弑殺して中山王を立てることを謀りました。」
史立が馮太后も責問しましたが、馮太后は罪を認める証言をしません。
そこで史立が言いました「熊が上殿した時元帝建昭元年38年参照)はあれほど勇敢だったのに(何其勇)、今は何を怯えているのだ(何怯也)!」
太后は帰ってから左右の者に「これは中語(宮中の話)です。吏がなぜ知っているのでしょう。私を陥れようと欲している效(証拠)です(刑から逃れることはできません)」と言い、薬を飲んで自殺しました。
宜郷侯馮参(馮太后の弟。成帝綏和元年8年参照)、君之、馮習およびその夫と子で連座する立場にいる者は、あるいは自殺し、あるいは法に伏して処刑されました。
漢書哀帝紀』は「冬、中山孝王太后馮媛と弟の宜郷侯馮参に罪があり、どちらも自殺した」と書いています。
死者は十七人に上り、人々で憐れまない者はいませんでした。
 
司隸孫宝が上奏し、馮氏の獄を改めて調査するように請いました。
すると傅太后が激怒してこう言いました「帝が司隸を置いたのは、主に私を監察するためですか!馮氏の反事(謀反)は明白です。故意に擿抉(あらさがし)して私の悪を宣揚したいのなら、私はそれに坐して当然です(我当坐之)!」
哀帝は傅太后の意思に従って孫宝を獄に下しました。
 
尚書僕射唐林が孫宝の投獄に激しく反対したため、哀帝は唐林が孫宝と徒党を組んでいる(朋党比周)とみなし、敦煌魚沢障候(魚沢は地名、障候は官名です)に左遷しました。
ところが大司馬傅喜と光禄大夫龔勝も頑なに反対したため、哀帝は傅太后に報告してから孫宝を釈放し、元の官を与えました。
 
張由は最初に馮氏の謀反を告発した功績によって関内侯の爵位が下賜され、史立も中太僕に抜擢されました。
 
尚、今回の事件で連座したのは馮太后の家族で、中山王劉箕子は王位を廃されていません。
劉箕子は哀帝死後、皇帝に迎えられて平帝となり、劉衎に改名します。
 
 
 
次回に続きます。