西漢時代307 平帝(一) 安漢公 1年(1)

今回から西漢平帝の時代です。
 
孝平皇帝
中山孝王劉康の子で、元の名は劉箕子といい、後に劉衎に改名します。
中山孝王劉興は元帝の子なので、平帝は元帝の庶孫になります。
劉箕子の母は衛姫といいます。
劉箕子は三歳で中山王を継ぎ(成帝綏和元年8年)、九歳で帝位に即きました。
 
 
今回から紀元後一世紀に入ります。
一世紀は王莽が西漢を滅ぼして新王朝を立てます。しかし、王莽の復古政策は全国に混乱をもたらし、すぐに分裂の時代を迎えることになります。
その中で勢力を伸ばして漢の政権を復興させるのが光武帝劉秀です。天下は光武帝によって統一され、約二百年続く東漢の時代が始まります。
 
 
西漢平帝元始元年
辛酉 1
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、王莽が益州に暗示し、塞外で越裳氏を自称している蛮夷に通訳を重ねて白雉一羽と黒雉二羽を献上させました。
通訳を重ねるというのは言葉が通じない遠い地から来たことを意味します。越裳氏は南方の遠国で、西周成王時代に何度も通訳を重ねて白雉を献上しに来ました。
王莽は自分の聖徳が遠方に届いていることを示すため、越裳氏を自称する蛮夷に貢献させました。
 
王莽が王太后に報告して三公に詔を下させました。詔によって三公が白雉を宗廟に奉げて祭祀を行います。
 
群臣が王莽の功徳を盛んに述べました「周成西周成王)の白雉の瑞が至りました。周公は身があるうちに周によって号を託されました(周公はその功績によって生前から周の号を託されました。周公を号すことになりました)(王莽の功徳は周公に匹敵するので)王莽にも号を下賜して安漢公と呼び、戸数を増やして爵邑を等しくするべきです(侯から公になるので、公爵に相応しい邑戸の数にするべきです。原文「益戸疇爵邑」)。」
 
太后尚書に詔を下してこの件を準備させました。
しかし王莽が上書してこう言いました「臣は孔光、王舜、甄豊、甄邯と共に策(新帝擁立の方針)を定めました。今は孔光等の功賞だけを列挙し、臣莽を寝置(放置。一方に置くこと)することを願います。同列に並べる必要はありません(勿隨輩列)。」
甄邯が王太后に進言し、王太后から詔を下させました「『偏ることなく党を為すこともない。王道は蕩蕩(広平明亮な様子)としている(無偏無党,王道蕩蕩)』といいます(『尚書洪範』の言葉です)。君(王莽)には宗廟を安定させた功があるので、骨肉を理由に故意に蔽隠(隠蔽)して宣揚しないわけにはいきません。君は辞退してはなりません。」
それでも王莽は堅く辞退する上書を繰り返し、四回に及びました。
最後は病と称して立ち上がらなくなります。
左右の者が王太后に言いました「王莽の意を奪わないほうがいいでしょう。孔光等(の功績)だけを列挙すれば、王莽も起つはずです。」
 
二月丙辰(二十八日)、王太后が詔を下しました「太傅博山侯孔光を太師に、車騎将軍安陽侯王舜を太保にし、皆、万戸を益封(加封)する。左将軍光禄勳甄豊を少傅に任命して広陽侯に封じる。皆に四輔の職(皇帝を直接補佐する職)を授ける。侍中奉車都尉甄邯を承陽侯に封じる。」
「二月丙辰」というのは『資治通鑑』の記述で、『漢書王子侯表』を元にしています(下述します)
漢書帝紀』では「春正月」、『漢書百官公卿表下』では「三月丙辰」です。
 
四人が賞を受けても王莽はまだ立ち上がりません。
群臣が再び進言しました「王莽は克譲(克己謙譲)していますが、朝廷が章(宣揚。表彰)すべき者には、適時に賞を加え、元功を重んじていることを明らかにするべきです。百僚(百官)元元(民衆)を失望させてはなりません。」
太后が詔を下しました「大司馬新都侯王莽を太傅にする。四輔の事を主管させ、号して安漢公と呼び、二万八千戸を益封する。」
王莽は恐懼してやむなく立ち上がり、太傅と安漢公の号を受け入れました。
 
朝廷は天下の民に爵一級を下賜し、二百石以上の官吏には全て本来の秩禄と同じ満秩を与えました(一切満秩如真)。試用期間中の官員にも正式な秩禄と同額の秩禄を与えたという意味です。『漢書帝紀』顔師古注によると、常法ではなく、この時だけ施行されたようです。
 
王莽は安漢公の号を受け入れましたが、益封の事は謙譲して辞退し、こう言いました「百姓の家が自給できる時まで待ち、その後で賞を加えられることを願います。」
群臣がまた争って進言したため、王太后が詔を発しました「公は自ら百姓の家が自給できる時を期限にしたので、これを聴くことにします。但し公の奉賜(「奉」は俸禄、「賜」は「常賜」で定期的に与えられる賞賜です)は全て以前の倍にさせます。百姓の家が自給して人々が足りるようになったら(満足できるようになったら。原文「百姓家給人足」)、大司徒と大司空は報告しなさい。」
王莽はこれも謙譲して受け入れず、宗室や群臣を褒賞するように建言しました。
 
そこで、旧東平王・劉雲の太子開明を東平王に立てました。
また、東平思王の孫で、桃郷頃侯の子に当たる劉成都を中山王に立てて、中山孝王劉興の後を奉じさせました
 
東平思王は劉宇といい、宣帝の子です。劉宇の死後、劉雲が東平王を継ぎました。
しかし劉雲(煬王)哀帝建平三年(前4年)に謀反の罪を弾劾され、自殺しました。その際、国が廃されましたが、今回、劉雲の子開明を改めて封王しました。
劉宇には劉雲以外にも子がおり、その一人が桃郷侯に封じられました。『漢書。王子侯表下』によると、桃郷侯の名は劉宣といいます。劉宣の死後、子の劉立が桃郷侯を継ぎましたが、後に免じられました。
劉宣の別の子(恐らく劉立の弟)が劉成都です。
劉箕子が中山王から帝位に即いたため、中山王の祭祀を継承するために、劉成都を中山王に立てました。
 
また、宣帝の耳孫劉信等三十六人を全て列侯にしました。
これは『漢書帝紀』と『資治通鑑』の記述で(但し『漢書帝紀』では正月、『資治通鑑』では「二月丙辰」です。上述)、『漢書王莽伝上(巻九十九上)』では「元始五年正月(本年は元始元年です)」に「孝宣皇帝の曾孫劉信等三十六人を列侯に封じ、その他の者には戸数を増やして爵位を下賜した。差をつけて金帛の賞賜を与えた」としています。
資治通鑑』胡三省注を見ると、『資治通鑑考異』から引用して、「『漢書王子侯表』では元始元年二月丙辰に封侯しているので、『王莽伝』が誤り」と書いています。
但し、胡三省自身は「『王子侯表』では陶郷侯劉恢等十五人が二月丙辰に封侯されているが、三十六人という数に及ばず、劉信の名もない。また、劉恢等は全て宣帝の(耳孫ではなく)曾孫である」と注釈しています。
胡三省注は触れていませんが、『王子侯表』で劉信という名を探すと、東平煬王劉雲の子がいます。哀帝建平二年(前5年)五月丁酉に厳郷侯に封じられ、後に父劉雲の大逆の罪に坐して免じられましたが、平帝元始元年(本年)に復封されました。
恐らく劉信が本年に封侯されたというのはこの復封を指します。胡三省が指摘している本年に封侯された十五人は初封の人数で、三十六人というのは劉信等の復封を合わせた数のようです。
 
本文に戻ります。
太僕王惲等二十五人は以前、定陶傅太后の尊号を討議した時、経法を守り、傅太后の意思に阿諛して邪に従うことがありませんでした。右将軍孫建は爪牙の大臣(軍事の重臣であり、大鴻臚左咸は先には議を正して阿らず、後には符節を奉じて中山王を迎えに行きました。宗正劉不悪、執金吾任岑、中郎将孔永、尚書姚恂、沛郡太守石詡に及んでは、皆かつて建策に参与して東に迎えに行き(『漢書帝紀』の注によると、関を出て平帝を迎え入れました)、平帝を即位させました。それぞれ事を奉じて周密勤労だったため、関内侯の爵位を下賜しました。食邑にはそれそれ差があります。
 
 
 
次回に続きます。