西漢時代309 平帝(三) 外戚衛氏 1年(3)
今回で西漢平帝元始元年が終わります。
王莽は平帝の外家・衛氏(平帝の母は衛姫です)が権勢を奪うことを恐れ、王太后にこう言いました「以前、哀帝が立った時、恩義に背いて勝手に外家の丁氏と傅氏を貴び、国家を撓乱(攪乱)して社稷を危うくするところでした。今、帝は幼年で、また大宗を奉じて成帝の後(後継者)になったので、一統の義を明らかにし、そうすることで前事を戒めて後代の法(模範)とするべきです。」
「一統の義」というのは、唯一正統な大宗を継承する道義です。平帝は諸侯王から皇帝になって漢家の大宗を継いだので、自分の親から離れなければならないという意味です。
六月、王莽が少傅・左将軍・甄豊を中山国に派遣しました。甄豊が璽綬を持って平帝の母・衛姫(中山孝王姫)を中山孝王后に拝します。
扶風功曹・申屠剛が直言の立場で朝廷の問いに答えて言いました「臣が聞くに、(西周)成王が幼少だったので周公が摂政し、直言を聴いて賢士にへりくだり(聴言下賢)、権勢を均等にして恩寵を施し(均権布寵)、行動は天地に順じて挙措(措置)を失いませんでした(誤りませんでした)。しかし近くでは召公が悦ばず、遠くでは四国に流言がありました(西周の朝廷内では、周公が成王を輔佐して権勢を握ったことに召公が不信を抱き、朝廷外では管、蔡等の国が周公に背いて挙兵しました)。今、聖主は襁褓から離れたばかりなのに、即位以来、至親(親族)と分離され、外戚が杜隔(隔絶)されて恩を通せなくなっています。そもそも漢家の制では、たとえ英賢に任せても、なお姻戚を引き入れて親疏を互いに交錯させ、間隙を杜塞(塞ぐこと)するものであり、誠にこうして宗廟を安定させて社稷を重んじてきたのです。すぐに使者を派遣して中山太后を招き、別宮に置いて(平帝が)定期的に朝見するべきです(令時朝見)。また、馮氏(中山孝王・劉興の母の一族です)と衛氏の二族を召して冗職(実権のない職)を裁與(恩情によって下賜すること)し、戟を持って自ら宿衛の職を奉じられるようにして、こうすることで患禍の端(発端。原因)を抑え、上は社稷を安んじて下は保傅(皇帝を養育する者。ここでは外戚)を全うする(守る)べきです。」
申屠剛は罷免されて田里(故郷)に帰りました。
丙午(二十日)、魯頃公の八世孫にあたる公子寬を褒魯侯に封じ、周公の祀(祭祀)を奉じさせました。周公は周代の魯国の祖です。魯は戦国時代に楚に滅ぼされました。
『漢書・平帝紀』は「周公の後代に当たる公孫相如を襃魯侯に封じた」と書いています。しかし、『漢書・外戚恩沢侯表』を見ると、六月丙午に公子寛が魯頃公の玄孫の玄孫として襃魯侯に封じられています。諡号は節侯です。
また、『外戚恩沢侯表』には「相如は公孫に姓を改め、後に姫氏に改めた」とあります。
姫氏は周王室の姓で、魯国も姫姓です。公子寛は公子が氏ですが、子の相如が公子から公孫に氏を改めて、後に先祖の姓である姫姓に戻したようです。
孔莽は後に王莽の名を避けて孔均に改名しました。
明光宮と三輔の馳道を廃止しました。
詔を発しました(恐らく王太后の詔です)「天下の女徒で既に罪が確定している者を家に帰す。但し、月三百の雇山銭(または「顧山銭」)を出させる(雇山銭というのは山で伐採する人を雇う金です。女囚を釈放しましたが、自分の代わりに労役する人を雇うため、雇山銭を納めさせました。『資治通鑑』胡三省注によると、太皇太后の徳を拡げるために、婦人に恩恵を施しました)。郷で一人貞婦を選び、賦役を免除する(復貞婦郷一人)。大司農部丞十三人は、一人を一州に置いて農桑を勧めさせる(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝時代に桑弘羊が大司農部丞数十人を置き、郡国に分配して均輸塩鉄を管理させました。今回は十三人を十三州に分けました)。」
また、少府に海丞と果丞をそれぞれ一人置きました。
中山苦陘県を中山孝王后(平帝の母)の湯沐邑にしました。
次回に続きます。