西漢時代314 平帝(八) 後嗣の義 3年(3)

今回で西漢平帝元始三年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
王莽は礼に明るい少府宗伯鳳(宗伯が姓で鳳が名です)を招き、宮廷で人の後嗣となった者の誼大義を説かせました。王太后に報告して令を出させ、公卿、将軍、侍中、朝臣の全てに聴かせます。
目的は、内は天子を戒め、外は百姓の議(王莽に対する批難)を塞ぐためです(平帝は大宗を継いだので、実母の衛后やその親族を顧みるべきではないという大義を平帝や群臣に説きました。衛氏を誅滅した事件を正当化するためです)
 
これより以前、金日磾(昭帝始元元年86年参照)の子金賞と都成侯金安上(金日磾の弟の子です。宣帝地節四年66年参照)の子金常はどちらも子がいなかったため、国が断絶しました。
そこで王莽は金日磾の曾孫に当たる金当と金安上の孫に当たる京兆尹金欽に爵位を継承させました。
 
漢書霍光金日磾伝(巻六十八)』によると、金日磾(敬侯)には金賞と金建という子がいました。金日磾の死後、金賞が継いで侯になりましたが諡号は節侯です)、子がいなかったため途絶えました。
今回、金日磾の曾孫に当たる金当が侯になりました。金当は金賞の弟金建の孫ですが、金賞の跡を継ぐことになります。
 
また、金日磾には金倫という弟がおり、その子が金安上で、都成侯に封じられました諡号は敬侯です)
金倫の死後、金常(夷侯)が継ぎましたが、子がいなかったため途絶えました。
今回、金欣が金安上の孫に当たるということで、都成侯になりました。金安上には金常、金敞、金岑、金明という子がおり、金明が金欣の父ですが、金欣は金常の後を継ぐことになりました。
 
資治通鑑』に戻ります。
金欽が言いました「当(金当)は自分の父と祖父のために廟を建てて、大夫に賞(金賞)の祭を主宰させるべきです。」
金当は金日磾と金賞の祭祀を継いでいます。しかし金欣は金当が実父と祖父(金建)の廟を建てて、金建の家系(祖父と実父の家系)によって金日磾の大宗を継承するべきだ、と発言しました。その場合、金当は金賞の後継者ではなくなるので、金賞の祭祀は大夫が行うことになります。
これは王莽が説いた「人の後嗣となった者の大義(大宗を継いだら自分の親を顧みてはならない)」に逆らうことです。
そのため、この時傍にいた甄邯が朝廷で金欽を叱責し、弾劾の上奏を行いました「金欽は祖先を貶めて不孝であり(誣祖不孝)、大不敬に当たります。」
金欣は下獄されて自殺しました。
 
甄邯は綱紀国体を守り、私情に偏ることなく(無所阿私)、忠孝が非常に顕著であると見なされて千戸を加封されました。
 
金欣の代わりに金安上の曾孫金湯を改めて都成侯に封じました。
漢書霍光金日磾伝』によると、金湯の父は金渉で、その父は金敞(都成夷侯金常の弟)です。
金湯は封侯を受けた日、自分の家に帰ろうとせず(実の父母から離れたことを意味します)、人の後を継いだ者の大義を明らかにしました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
陽陵の任横等が将軍を自称し、庫兵(武庫の兵器)を盗み、官寺(官署)を攻め、囚徒を牢獄から出しました。
しかし大司徒掾が督戦して駆逐し、全て刑に伏しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、尚書潁川の人鍾元が大理に任命されました。
資治通鑑』胡三省注によると、哀帝元寿二年(1)に廷尉が大理に改められました。
 
潁川太守陵陽の人詡は以前、孝行によって官を授かりました。掾や史を師友と呼び、過失があったらいつも閤(部屋の戸)を閉じて自責します。今まで大声を上げたこともありませんでした。
やがて潁川郡で乱が起きました。『資治通鑑』胡三省注は「世が降って(時代が経って)(風紀。教化)が薄くなったら、詡のように)善を為すだけでは政治ができない」と書いています。
 
王莽は使者を送って厳詡を招きました。官属数百人が厳詡のために祖道(餞別の祭祀と酒宴)を設けます。すると厳詡が両手を地について哀哭しました。
掾と史が言いました「明府(太守。厳詡)は幸にも(朝廷に)招かれました(明府吉徵)。そのようにするべきではありません。」
厳詡が言いました「私は潁川の士を哀しんでいるのだ。この身に何の憂いがあるだろう。私は柔弱だったために招かれた。必ず剛猛な者を選んで代えるはずだ。代わりの者が来たら、僵仆(倒れること)の者が出るだろう(死者が出るだろう)。だから弔ったのだ。」
厳詡は朝廷に入ると美俗使者に任命されました。民を教化して風俗を美しくする使者です。
 
隴西太守何並が潁川太守に遷されました。
何並が潁川郡に入ると、鍾元の弟威や陽翟県の軽俠(命を軽んじる侠士)趙季、李款を殺して郡中を震撼戦慄させました。
 
 
 
次回に続きます。