新更始時代3 新王莽(三) 十一公 9年(2)

今回は新王莽始建国元年の続きです。
 
[(続き)] 王莽は金匱(哀章が献上した図書です。前年参照)に基いて輔臣を任命しました。
太傅左輔驃騎将軍安陽侯王舜を太師に任命して安新公に封じます。
大司徒就徳侯平晏を太傅に任命して就新公に封じます。
少阿羲和京兆尹紅休侯劉歆を国師に任命して嘉新公に封じます。
広漢梓潼の人哀章を国将に任命して美新公に封じます。
これが四輔で、位は上公です。
 
太保後承承陽侯甄邯を大司馬に任命して承新公に封じます。
丕進侯王尋を大司徒に任命して章新公に封じます。
歩兵将軍成都王邑を大司空に任命して隆新公に封じます。
これが三公で、四輔と合わせて七公といいます。
 
大阿(太阿)右拂大司空衛将軍広陽侯甄豊を更始将軍に任命して広新公に封じます。
京兆の人王興を衛将軍に任命して奉新公に封じます。
軽車将軍成武侯孫建を立国将軍に任命して成新公に封じます。
京兆の人王盛を前将軍に任命して崇新公に封じます。
これを四将といいます。
 
以上七公と四将を併せて十一公といいます。
このうち、王興は元城門令史(『資治通鑑』胡三省注によると、城門令史は城門校尉に仕えて文書を管理しました)で、王盛は餅(小麦等を練って作った食べ物)を売っていました。王莽は符命に基いて王興、王盛という姓名の者を求め、十余人を得ました。その中で、この二人の容貌が卜相(人相占の要求)に応じていたため、布衣(庶民)の身から直接登用して神異を示しました。
他の同姓同名の者は皆、郎を拝命しました。
 
この日(正月朔)、卿大夫、侍中、尚書官、合わせて数百人が任命されました。
諸劉氏で郡守を勤めていた者は全て諫大夫に遷されます。
 
明光宮を定安館に改めて定安太后を住ませました。
また、大鴻臚府を定安公第(邸)とし、どちらにも門衛を置いて王莽の使者が監領(監督)することにしました。
定安公(孺子)の阿乳母(保母。乳母)に命じて定安公との会話を禁止しました。しかも定安公は常に四壁(部屋)の中で生活させられたため、成長してからも六畜(牛、馬、羊、犬、豚、鶏)の名さえ言えませんでした。
定安公は後に王莽の孫に当たる王宇の娘を妻にします。
 
王莽が四輔三公の職責を明らかにするために、群司(群臣)に策書を下して言いました。
策書の内容を書く前に、いくつか単語の解説をします。
まず、王莽は太師、太傅、国師、国将の四輔に東嶽、南嶽、西嶽、北嶽をあてはめました。四輔は四季・四方を担当します。
また、古代は五行に対応して五星という考え方がありました。五行が方位を表すように、五星にも方位があります。歳星木星。東方)、熒惑(火星。南方)、太白(金星。西方)、辰星(水星。北方)と鎮星土星。中央)です。
以下、策書の内容です。
「歳星木星。東方)は肅(敬粛。厳粛)を司る。東嶽太師は時雨(適切な雨。万物は雨によって芽生えるので、ここでは春を意味します)が到ることを主管する(太師は四輔の筆頭なので春を司ります)。青煒(青い光輝。朝、または春の陽光)が登平し、景(影)を考察することで晷を成す(「登平」は上昇の意味です。東方から太陽が昇ったら影ができます。影を考察することで晷が造られます。「晷」は影の位置から時間を測定する儀器、または時刻そのものを指します。春を司る東嶽太師は太陽の運行、四季の秩序を担当したのだと思われます)
熒惑(火星。南方)は悊(哲。智)を司る。南嶽太傅は時奧(適切な熱暑。ここでは夏を意味します)が至ることを主管する(南方は夏に当たり、陽が盛んな方位です。太傅は「師尊(天子の師匠)」なので、陽が盛んな夏を司ります)。赤煒(赤い光輝。日中、または夏の陽光)が頌平し、声(音)を考察することで律と成す(「頌平」は本来「太平を讃頌すること」ですが、ここでは恐らく「(陽気が)緩やかになる」という意味です。夏の最後の月である六月は陽光の勢いが止まります。『漢書』の注によると、六月は陰気が始まるので地(陰)の系統に属します。天は陽に当たり、奇数が陽の数とされます。地は陰に当たり、偶数が陰の数とされます。六は地(陰。二、四、六、八、十)の数の中心です。また、六は律となり、律には形も色もあり、色は新王朝の黄色を尊びます。黄色を尊ぶというのは、恐らく律の基準になるのが「黄鐘」だからです。夏を司る南嶽太傅は音律を担当したのだと思われます)
太白(金星。西方)は艾(安)を司る。西嶽国師は時陽(適切な陽気、乾燥。ここでは秋を意味します)が至ることを主管する国師がなぜ秋を司るのかはわかりません)。白煒(白い光輝。夕方、または秋の陽光)が象平し、量を考察して銓と成す(「象平」は形を整えるという意味です。白煒が象平するというのは、秋の太陽によって万物が成熟することを意味します。「量」は斗斛、容量です。「銓」は軽重を量ることです。秋は万物がそろうので、大小軽重を把握できます。秋を司る西嶽国師は万物の状態、または収穫を担当したのだと思われます)
辰星(水星。北方)は謀を司る。北嶽国将は時寒(適切な寒冷。ここでは冬を意味します)が至ることを主管する(北方は陽が伏せて陰が起きるとされました。陰は殺傷を主持するので、兵権を持つ国将が冬を司ります)。玄煒(暗い光。冬の太陽、または夜の明り)が和平し、星を考察して漏と成す(この「和平」は調和の意味です。万物は冬になったら隠れます。光が暗くなって闇に満たされるので、夜の星を観測して漏(時刻を計る器具、または時刻そのものを指します)を造ります。冬を司る北嶽国将は時刻を担当したのだと思われます)
月は刑であり、元(元君。天子)の股左(左腿)である。司馬(大司馬)は武応(武備)が至ることを主管し、方(方形)を考察して矩(定規)に法り(法則、準則に法り。原文「考方法矩」)、主に天文を司り(司馬は武力と天文を司ることで刑罰の威信を掌握することができます)昊天に対して欽若(敬順)になり、謹んで民時を授け(民に暦法を授け。農時に則した指示を出すという意味です。原文「敬授民時」)、農事を力来(奨励)し、こうして年穀(収穫)を豊かにする。
日は徳であり、元(天子)の厷右(肱右。右腕)である。司徒(大司徒)は文瑞(文教)が至ることを主管し、円を考察して規(円を描く道具)と符合させ(融合和睦を重視し。原文「考圜合規」)、主に人道を司り、五教(父義、母慈、兄友、弟恭、子孝)を助け、民を率いて上に従い、風俗を宣美して五品五常。仁、義、礼、智、信)を順調にする(五品乃訓)
北斗星は平(公平)であり、元(天子)の心中である。司空(大司空)は物図(物産図籍)が至ることを主管し、度(程度)を考察して縄(準則。基準)となし(考度以縄)、主に地里(地理、地形)を司り、水土を平治(治理。整理)して名山川を掌管し、鳥獣を衆殖(繁殖)させて草木を蕃茂(繁茂)させる。」
 
その他の諸官にも策書を発して職ごとに命を与えました。その内容は『典誥(『尚書堯典』と『湯誥』)』の文に則っていました。
 
 
 
次回に続きます。

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