新更始時代12 新王莽(十二) 新貨幣 10年(4)
今回も新王莽始建国二年の続きです。
王莽が作った銭幣(貨幣)が一向に流通しないため、王莽が書を下して言いました「民は食を命とし、貨(貨幣。または貨物、物資)を資(資本)とするので、八政(政治における八つの方針。『尚書・洪範』に記述があります。食、貨、祀(祭祀)、司空(土木)、司徒(民事、教化)、司寇(法律)、賓(朝会。諸侯との関係)、師(軍事)です)は食を首(筆頭)としている。宝貨(貨幣)が全て重かったら(大きかったら)、小用の時(小さい物を買う時)に不便である(小用不給)。しかし全て軽かったら(小さかったら)、僦載(輸送。持ち運び)の時に煩わしくて労力を費やす(僦載煩費)。軽重大小にそれぞれ差品(等級)があれば、用いるのが便利で民も歓迎する(用便而民楽)。」
こうして王莽が改めて貨幣を造りました。金・銀・亀・貝・銭・布の品(種類)があり、名を宝貨といいます。
以下、『資治通鑑』と胡三省注からです。
「銭貨」には更に六品があります。
小銭は直径六分、重さ一銖で、名を「小銭直一」といいます。「直」は「値」に通じます。
次は直径七分、重さ三銖で「幺銭一十」といいます。「幺」は「小」に通じます。
次は直径八分、重さ五銖で「幼銭二十」といいます。
次は直径九分、重さ七銖で「中銭三十」といいます。
次は直径一寸、重さ九銖で「壮銭四十」といいます。
これにいままでの「大銭五十」を合わせて六品になります。
「金貨」は一品で、黄金一斤です。銭一万に値します。
「銀貨」は二品あります。
「他銀(その他の銀)」を一流(一品)とし、値は千銭です。
「亀貨」は四品です。
「元亀」は甲羅の縁から縁の長さが一尺二寸で二千六百十銭に値します。「元」は「大」の意味です。
「公亀」は九寸で五百銭に値します。
「侯亀」は七寸以上で三百銭に値します。
「子亀」は五寸以上で百銭に値します。
「貝貨」は五品です。
「大貝」は四寸八分以上で、二枚を一朋とし、二百十六銭に値します。
「壮貝」は三寸六分以上で、一朋が五十銭に値します。
「幺貝」は二寸四分以上で、一朋が三十銭に値します。
「小貝」は一寸二分以上で、一朋が十銭に値します。
一寸二分を満たさず度から漏れており(規格から外れており)、朋にならないものは、一枚を約三銭としました。
「布貨」は十品です。
大布、次布、弟布、壮布、中布、差布、厚布、幼布、幺布、小布です。
小布は長さ一寸五分、重さ十五銖で、「小布一百」と書かれています。小布から上は一品ごとに長さ一分、重さ一銖が加わり、それぞれ布名(大布、次布等)が書かれています。価値はそれぞれ百銭が加えられ、大布に至ると長さ二寸四分、重さ一両(一両は二十四銖です)、値千銭になります。
以上、宝貨五物(五つの物質。銭と布で一つです)、六名(六種類)、合計二十八品です。
銭と布の鋳造には全て銅を使い、連(恐らく銅の一種)、錫を混ぜました。
この結果、貨幣の種類が増えすぎて百姓が混乱し、逆に貨幣が流通しなくなりました。
王莽は民が憂怨して従わない状況を知り、結局、値一銭の小銭と値五十銭の大銭だけを使うことにしました。二品が並行し、亀、貝、布の類は暫くして取りやめとなります。
王莽は貨幣の私造(盗鋳銭)を禁止しましたが、無くなりませんでした。そこで更に法を重くし、一家が銭を鋳造したら五家が坐し、財産を没収して官府の奴婢にすることにしました。
吏民が外出する時は布銭を持って符伝(通行書)に沿えさせました。布銭を持っていない者は、厨伝(「厨」は飲食の場所、「伝」は駅舎です。どちらも旅行者が宿泊する場所です)に泊まることができず、関津(関所や渡し場)では問責されて通過が許されませんでした。
公卿にも皆、布銭を持って宮殿の門を入らせ、こうすることで新貨幣を重んじて流通させることを期待しました。
当時の百姓は漢の五銖銭が便利だと思っており、王莽の大小二種類の銭が流通できるかどうかは判断しがたく(二種類が通用するかどうかが分からず。原文「以莽銭大小両行難知」)、また、しばしば変改したため新貨幣を信用していませんでした。人々は秘かに五銖銭を使って市買(売買)します。
やがて大銭が廃されるという噂が流れたため、大銭を携帯する者もいなくなりました。
王莽はこれを憂いて再び書を下しました「五銖銭を携帯する者、大銭が廃されると言う者は、井田制を非難した罪と同等とみなし(比非井田制)、四裔に投じる。」
この後、田宅・奴婢を売買したり貨幣を鋳造した罪に坐した者は(田宅や奴婢の売買は前年に禁止されました)、諸侯・卿大夫から庶民に至るまで、数え切れないほどになりました。
次回に続きます。