新更始時代13 新王莽(十三) 甄豊の死 10年(5)
今回で新王莽始建国二年が終わります。
王莽が簒奪を謀った頃、吏民が争って符命を作り、全て封侯されました。
符命を作らなかった者達は互いに戯れて「あなたには天帝の除書(任命書)が無いのか(独無天帝除書乎)」と言い合いました。
司命・陳崇が王莽に言いました「これは姦臣が福を作る路を開き、天命を乱すことになるので、その原(根源)を絶つべきです。」
王莽も符命を倦厭していたため、尚書大夫(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽は九卿の一卿ごとに三大夫を置きました。尚書大夫は共工に属すようです)・趙並に調査させ、五威将帥が頒布した内容以外の符命を作った者は全て獄に下しました。
以前は甄豊、劉秀、王舜が王莽の腹心として官位に居る者を先導し(唱導在位)、王莽の功徳を褒揚しました。安漢、宰衡の号や王莽の母、二子、兄の子に対する封号・封爵は全て甄豊等が共に謀ったことです。甄豊、王舜、劉秀もそれによって恩恵が与えられ、共に富貴を得ましたが、更に王莽に居摂させようとは望みませんでした。
居摂の萌(きっかけ)は泉陵侯・劉慶、前煇光・謝囂(『資治通鑑』胡三省注によると、周の申伯が謝を邑にし、その子孫が謝を氏にしました)、長安令・田終術から発しました(劉慶と謝囂は平帝元始五年・5年に記述があります。田終術は詳細が分かりません)。
王莽の羽翼が既に完成し、その意が称摂(摂政)を欲すると、甄豊等は王莽の意を受け入れて従いました。これに対して王莽は王舜、劉秀の二子と甄豊の孫を封じて報います。
甄豊等は爵位が既に盛んになり、心意も満たされると、内心で漢の宗室や天下の豪桀を畏れるようになりました。
しかし疏遠な立場(皇族・貴族や官僚以外の立場)から身を進めることを欲している者達(哀章等)が共に符命を作ったため、王莽はついにそれを根拠にして即真(真皇帝の位に即くこと)しました。
王舜と劉秀は内心で懼れるだけでしたが、甄豊はかねてから剛強だったため(反対意見も多かったため)、王莽は甄豊が不快になっていると察しました。そこで大阿(太阿)・右拂・大司空だった甄豊を、符命の文を借りて更始将軍に遷し、売餅児(餅売り。餅は小麦をこねて作った食べ物です)・王盛と同列にしました。甄豊父子は黙ったまま何も言いません。
当時、甄豊の子・甄尋は侍中・京兆大尹・茂徳侯でした。この甄尋が符命を作りました。「新室は陝で分けて二伯(二人の長)を立て、甄豊を右伯に、太傅・平晏を左伯にして、周・召の故事のようにするべきだ」という内容です。
陝は地名です。西周は陝を基準に天下を東西に分け、陝東は周公に主管させ、陝西は召公に主管させました。
甄豊が匈奴討伐の任務を受けて西に出発する時(原文「当述職西出」。「述職」は任務の内容を報告することですが、ここでは任務を受けるという意味です)、甄尋がまた符命を作りました。そこには「故漢氏平帝の后・黄皇室主は甄尋の妻になる」とあります。
王莽は詐術によって帝位に即いたため、心中で大臣の怨謗を疑っており、威を震わせて臣下を懼れさせようと思っていました。そこでこの符命を利用し、怒りを発してこう言いました「黄皇室主は天下の母である。これは何を言うのか!」
王莽は甄尋の逮捕を命じます。
甄尋は逃亡し、甄豊は自殺しました。
甄尋は方士に従って華山に入りましたが、一年余で逮捕されました。
甄尋の自供は国師公・劉歆の子である侍中・東通霊将・五司大夫・隆威侯・劉棻や、劉棻の弟に当たる右曹・長水校尉・伐虜侯・劉泳、大司空・王邑の弟に当たる左関将軍・掌威侯(『漢書・王莽伝』では「堂威侯」ですが、『資治通鑑』は「掌威侯」としています。恐らく『漢書』の誤りです)・王竒(王奇)および劉歆の門人である侍中・騎都尉・丁隆等に言及しました。公卿・党親・列侯以下、連座して死んだ者は数百人を数えます。
甄尋の手には「天子」という字の模様があったため、王莽は甄尋の腕を切断して宮内に運ばせ、それを視て「これは『一大子』である。あるいは『一六子』である。『六』とは『戮』だ(古音では『六』と『戮』の音が似ていたようです)。甄尋の父子が戮死に遭うことを明らかにしている」と言いました。
王莽は劉棻を幽州に流し、甄尋を三危に放ち、丁隆を羽山に殛(放逐)しました。駅車に死体を載せてそれぞれの地に運びます(帝堯の時代、舜が四凶を四裔の地(四方の辺境)に放逐しました。共工は北の幽陵(幽州)、驩兜は南の崇山、三苗は西の三危山、鯀は東の羽山です。王莽は始祖である舜の故事に倣い、幽州、三危、羽山に劉棻、甄尋、丁隆を放逐しました。但し三人とも既に処刑されていたため、死体を運びました)。
王莽の為人は口は大きいのに顎が小さく(侈口蹷顄)、目が出ていて眼球が赤く(露眼赤精)、大きな声なのにしわがれていました(大声而嘶)。身長は七尺五寸で、厚履(底が厚い靴)・高冠を好み、氂を衣服に使い(原文「以氂装衣」。「氂」は固くて曲がった毛です。『漢書』顔師古注によると、氂を褚衣(綿衣)に使ったようです。体を大きく見せるためです)、胸を反らせて高い所から見下ろし、左右を瞰臨(俯瞰。遠くを見下ろすこと)しました。
当時、方技によって黄門で待詔(皇帝の招きに応じるため待機すること)している者がいました。ある人が王莽の形貌(容貌)について問うと、待詔の者はこう言いました「王莽はいわゆる鴟目(ふくろうの目)、虎吻(虎の口)、豺狼(山犬や狼)の声というものだ。だから人を食うことができるが、また、人によって食われることになる。」
質問した者がこれを王莽に告げたため、王莽は待詔の者を誅滅(誅殺)し、報告した者を封爵しました。
この後、王莽は常に雲母の屏面(扇の一種)で顔を隠し、親近の者以外は顔を見ることができなくなりました。
この頃、王莽は神仙の事に興味を抱くようになりました。
方士・蘇楽の言によって八風台を建て、その費用は万金に及びました。
また、五粱禾を殿中に植えました。事前に融かした宝玉に種を浸けて保護します。粟一斛当たり一金を費やしました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「五粱禾」は「五色禾」ともいい、五色は五徳を表します。五徳にはそれぞれ符合する方角と色があるので、王莽は五色の禾を五つの方角(中央と東西南北)に植えることで、五徳の植育を象徴しました。
五粱禾の種は鶴髓、瑇瑁、犀、玉等二十余物を煮て作った汁に浸して保養されてから、植えられました。
寧始将軍は以前の更始将軍で、十一公の一人です。更始将軍・甄豊が死んだため、姚恂が代わって寧始将軍になりました。
次回に続きます。