新更始時代11 新王莽(十一) 降奴服于 10年(3)

今回も新王莽始建国二年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
十一月、立国将軍孫建が上奏しました「西域将(但欽)が報告して『九月辛巳(中華書局『白話資治通鑑』は「辛巳」を恐らく誤りとしています)に戊己校尉史陳良、終帯が共に校尉刁護を賊殺して吏士を劫略(略奪)し、廃漢大将軍を自称して(実際は「漢大将軍」ですが、孫建は新の大臣の立場にあるので「廃漢大将軍」と呼んでいます)匈奴に逃亡した』と言いました。また、今月癸酉(十二日)には誰か分からない一人の男子が臣建(私)の車前を遮り、『(わしは)漢氏の劉子輿、成帝の下妻(小妻。妾)の子である。劉氏が復すことになるから、速やかに宮を空けよ』と自称しました。男子を捕えて繋ぐと、常安長安の姓は武、字は仲という者でした。どちらも天に逆らって命に違え、大逆無道です。武仲および陳良等の親属も坐して刑に就くように裁くことを請います。」
上奏は裁可されました。
 
(孫建がまた上奏しました)「漢氏の高皇帝が頻繁に戒めを顕著にして『吏卒を廃して賓食となり(漢の宗廟を廃して吏卒を撤収し、新朝の賓客として王氏の廟で祭られる立場となり)、誠に天心を受け入れて、子孫を全うすることを欲している』と言いました。その宗廟は常安城中にあるべきではなく、諸劉で諸侯になった者に及んでは漢と共に廃されるべきです。しかし陛下は至仁なので、久しく決定しませんでした。以前、故(元)安衆侯劉崇(王莽(孺子)居摂元年6年参照)、徐郷侯劉快(前年参照)、陵郷侯劉曾(楚思王劉衍の子です。劉衍は楚孝王劉囂の子で、劉囂は宣帝の子です。『漢書王子侯表』によると、劉曾は哀帝建平四年(前3年)に封侯され、六年後に王莽を誅殺するために挙兵して殺されました)、扶恩侯劉貴(詳細不明です)等が代わる代わる衆を集めて謀反しました。今、狂狡の虜があるいは妄りに亡漢の将軍を自称し、あるいは成帝の子子輿を称し、夷滅(族滅)を犯すに至っても、まだ連続して止まらないのは、聖恩が早くその萌牙(萌芽)を絶たないことが原因です。
臣の愚見によるなら、漢高皇帝を新室の賓とし、明堂で享食(祭祀を受けること)させるべきです。成帝は異姓の兄弟で(成帝と王莽は異姓の従兄弟の関係です)、平帝は壻なので(平帝は王莽の娘を娶りました)、どちらもその(漢の)廟に入れるべきではありません。元帝と皇太后(王政君)(夫婦なので)一体にします。これは聖恩(王莽の恩恵)を盛んにすることであり(聖恩所隆)、礼においてもそうあるべきです(礼亦宜之)。臣は漢氏諸廟で京師にあるものを全て廃止し、諸劉で諸侯になっている者は、戸数の多少によって五等の差(五爵)に就けさせ、(劉氏で)吏になっている者は全て廃して家で新たな任命を待たせること(待除於家)を請います。こうすれば、上は天心に当たり、高皇帝の神霊に符合し、狂狡の萌を塞ぐことになります。」
 
王莽が言いました「可(裁可する)。但し、嘉新公国師(劉秀)は符命によって予の四輔となり、明徳侯劉龔(詳細不明です。劉秀の孫、または親戚かもしれません。東漢光武帝建武三年・27年に「劉龔」という人物が登場します)、率礼侯劉嘉(王莽(孺子)居摂元年6年に劉崇が謀反した時、王莽に降って封侯されました。本年二月に符命を献上して封侯された広陽王劉嘉とは別人です)等、計三十二人は皆、天命を知り、あるいは天符を献じ、あるいは昌言(正言)を貢じ(献じ)、あるいは反虜を捕告し、その功が盛んである(茂焉)。諸劉でもこの三十二人と同宗共祖の者は罷免せず、姓を下賜して王とする。」
国師劉秀だけは娘を王莽の子に嫁がせていたため(『資治通鑑』胡三省注によると、劉秀の娘劉愔は王莽の子王臨に嫁ぎました)、王姓を下賜されませんでした。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
定安公太后(王莽の娘)は劉氏が廃されてから(漢が滅んでから)常に病と称して朝会(朝見)しませんでした。この時はまだ二十歳にもなっていません。
王莽は敬憚(畏敬)傷哀して再婚させたいと思い、漢との関係を絶つために号を改めて黄皇室主と呼ぶことにしました。
資治通鑑』胡三省注によると、王莽は自分を土徳としたため、黄皇室主と称しました。室主は漢の公主という意味、または、まだ嫁いでおらず室に居る者という意味です。
 
王莽は孫建の世子を盛んに着飾らせ、医者を連れて黄皇室主の看病に行かせました。
しかし后は激怒して鞭笞で傍の侍御を打ちました。
ここから本当に病を患い起き上がらなくなります。
王莽は再婚を強制しなくなりました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
十二月、雷が鳴りました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽は府庫の富に頼って匈奴に威を立てようと欲し、匈奴単于を改名して「降奴服于」と呼ぶことにしました。
王莽が詔を発して言いました「降奴服于(烏珠留単于。本名は嚢知牙斯ですが王莽が一字名に改めさせました)は五行(天命)を威侮(侵犯して貶めること。侮ること)し、四條(四条の規定)に背畔(背反)し、西域を侵犯し、伸長して辺垂(辺境)に及び、元元(民衆)の害となった。その辠(罪)は夷滅(族滅)に値する。よって命を下して立国将軍孫建等、計十二将を派遣し、十道から並んで出撃させ、共に皇天の威を行って知単于の身を罰する。しかし知(烏珠留単于の先祖である故呼韓邪単于稽侯累世(代々)忠孝で、塞を保って徼(辺境)を守った事を想うと、一人・知の罪によって稽侯の世(家系。子孫)を滅ぼすのは忍びない。そこで、匈奴の国土人民を十五に分け、稽侯の子孫十五人を単于に立てることにする。中郎将藺苞、戴級を塞下に馳せさせ、単于になる者を召して拝させる。諸匈奴の人で虜知(烏珠留単于の法(罪)に坐すべき者も、皆、赦除(赦免)する。」
 
こうして匈奴遠征が開始されました。
五威将軍苗訢、虎賁将軍王況が五原から、厭難将軍陳欽、震狄将軍王巡が雲中から、振武将軍王嘉、平狄将軍王萌が代郡から、相威将軍李棽、鎮遠将軍李翁が西河から、誅貉将軍陽俊、討穢将軍厳尤が漁陽から、奮武将軍王駿、定胡将軍王晏が張掖から出撃します。褊裨(副将)以下の軍官は百八十人です。
天下の囚徒、丁男、甲卒三十万人を募り、各郡に伝令して五大夫の衣裘(「五大夫」が何を意味するのか分かりません。『漢書王莽伝中』では「五大夫衣裘」ですが、『資治通鑑』は単に「衣裘」としています)、兵器、糧食を委輸(輸送)させ、長吏が負海(沿海)江淮(長江淮水一帯)から北辺に至り、使者が伝(伝馬。伝車)を駆けさせて督促し、軍興法(戦時の法令)に則って事を行いました(遅れた者や規律を犯した者は軍法に則って処罰しました)
遠征のために天下が騷動します。
 
王莽は、先に至った者は辺郡に駐屯させ、全軍がそろってから同時に出撃するように命じました。
匈奴を窮追して丁令(丁零)まで進攻し、その国土と人民を十五に分けて呼韓邪単于の子孫十五人を単于に立てることが目的とされます。
 
 
 
次回に続きます。