新更始時代19 新王莽(十九) 新朝の大臣 14年(1)

今回は新王莽天鳳元年です。三回に分けます。
 
新王莽天鳳元年
甲戌 14
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
春正月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽が言いました「予は二月建寅の節に巡狩の礼を行う(新王莽始建国四年12年参照)。太官は糒(乾飯)乾肉を携帯し、内者は帷幕や座臥を準備し(行張坐卧)、通過する場所で供給を得てはならない(所過毋得有所給)
予の東巡においては、必ず我が身で耒(鋤)を携帯し(必躬載耒)、每県で耕して東作(春の耕作)を勧めよう。
予の南巡においては、必ず我が身で耨(鍬)を携帯し(必躬載耨)、每県で薅(草を刈ること)して南偽(南訛。夏の耕作)を勧めよう。
予の西巡においては、必ず我が身で銍(鎌)を携帯し(必躬載銍)、每県で穫(収穫)して西成(秋の収穫)を勧めよう。
予の北においては、必ず我が身で拂(連枷。脱穀のために稲を叩く道具)を携帯し(必躬載拂)、每県で粟穀物を収めること)して蓋臧(貯蔵)を勧めよう。
北方の巡狩の礼を終えたら、土の中に即いて雒陽の都を居とする(全国の中心に位置する雒陽の都に入る)。敢えて趨讙(走ったり騒ぐこと)・犯法(法を犯すこと)する者は、全て軍法で処理する(以軍法従事)。」
 
群公が上奏しました「皇帝は至孝であり、往年は文母(王政君)の聖体が不豫(不調)だったので、自ら看病して(躬親供養)、衣冠も稀にしか解きませんでした。(その後)群臣を棄てる悲哀に遭い太后崩御に遭い)(陛下は)顔色がまだ復さず、飲食も損少(減少)しています。今、一歳(年)で四巡したら、道路は万里におよび、春秋が尊い(高い)ので(老齢なので)、糒乾肉で堪えられるものではありません。暫くは巡狩せず、大服太后の喪)が尽きるのを待ち(須闋大服)、その間に聖体を安んじるべきです。臣等が尽力して兆民(万民)を養牧し、明詔を奉称します(明詔を奉じて実現させます)。」
王莽が言いました「群公、群牧、群司、諸侯、庶尹(郡守)が尽力して互いに領導し、兆民を養牧することを願い、そうすることで予(の心意)に沿おうと欲しているので、それを汲んで敬聴する(意見に従うことにする)。これに勉めよ(其勗之哉)。食言(約束を破ること)してはならない。(巡行の年を)改めて天鳳七年と定め、歳(歳星)が大梁にあり、倉龍が庚辰にいる時に、巡狩の礼を行う。その明年(翌年)、歳が実沈にあり、倉龍が辛巳にいる時、土の中(全土の中心)に位置する雒陽の都に即く(入る)。」
王莽は太傅平晏、大司空王邑を雒陽に派遣し、宅兆(「宅」は住居、「兆」は墓地や祭祀を行う場所です)を選択させ(営相宅兆)、宗廟、社稷、郊兆(諸神を祀る祭壇)の建設を図りました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
三月壬申晦、日食がありました。
天下に大赦しました。
 
王莽が大司馬逯並に策書を下して言いました「日食によって光が無くなり、武器も収蔵されない(戦争が終わらない。原文「干戈不戢」)。よって大司馬の印韍を返上し、侯氏(侯爵)の朝位に就け(侯爵として朝見に参加せよ)。太傅平晏には尚書の政務を兼任させず(勿領尚書事)、侍中諸曹の兼官を省く。利苗男訢を大司馬にする。」
「利苗男訢」の「利苗」は邑名で、「男」は「男爵」の意味です。氏名は「苗訢」といいます。
 
王莽は皇帝の位に即いてから、特に大臣に警戒して臣下の権勢を抑奪しました。朝臣で大臣の過失を証言した者はいつも抜擢されます。
孔仁、趙博、費興(『資治通鑑』胡三省注によると、費氏は「禹の後代」という説、「魯桓公の少子季友が費を邑としたことから生まれた」という説があります。費には「蜚」と「秘」の音があり、「蜚」と読む場合は嬴姓から生まれた氏で、伯益の後代です。費昌、費中、楚の費無極、漢の費将軍、費直、費長房、費禕等がそれです。「秘」と読む場合は姫姓から生まれた氏で、魯の季友の子孫です。琅邪の費氏はこの後代に当たります)等は果敢に大臣を攻撃したため、王莽に信任され、名官を選んで任命されました。
 
公卿が入宮する時は従う官吏の定員が定められていました。
ある時、太傅平晏に従う官吏が例(規定)を越えていたため、掖門僕射が厳しく審問しました。しかしその態度が不遜だったため、戊曹士が僕射を逮捕して獄に繋げます。
資治通鑑』胡三省注によると、王莽は自分を土徳としたため、太傅に戊曹士を置きました。十干の「戊」は土徳に属します。「士」は漢代の「掾(属官)」です。
 
太傅戊曹士が僕射を逮捕したことに王莽が激怒しました。執法に命じて車騎数百を動員させ、太傅府を包囲して士を捕えさせます。士はすぐに死にました。
 
またある時、大司空士が夜の間に奉常亭を通りました。亭長がこれを譴責して官名を告げさせます。
この時、亭長は酔っており、こう言いました「どうして符伝(通行書)があろうか(原文「寧有符伝邪」。亭を通過することを拒否しました)?」
士が(怒って)馬箠(鞭)で亭長を撃ったため、亭長は士を斬って逃亡しました。
郡県が亭長を追跡します。
亭長の家人がこの事を上書すると、王莽はこう言いました「亭長は公を奉じたのだ。逐う必要はない。」
大司空邑は士(斬られただけで死んではいなかったようです)を退けて謝罪しました。
 
国将哀章が清廉ではなかったため、王莽は特別に和叔という官(国将の補佐官)を置き、戒めてこう言いました「国将の閨門(家門)を保つ(補佐する)だけでなく、西州にいる親属も保たなければならない。」
当時は諸公(諸大臣)が軽賎(軽視)されていましたが、哀章が特にひどい状態でした(原文「諸公皆軽賎而章尤甚」。「諸公が軽賎(卑賎)だったが、哀章が特にひどかった」とも読めますが、『資治通鑑』胡三省注は「十一公が皆、王莽に軽賎されていたが、哀章が最もひどかった」と解説しています)

[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
四月、霜が降り、草木を殺しました。沿海地方で特に大きな被害が出ました。
 
六月、黄霧が四方を覆いました(四塞)
 
七月、大風が樹を倒しました。また、北闕直城門の屋瓦を飛ばしました。
資治通鑑』胡三省注によると、直城門は長安城西側の南から二番目の門です。
 
更に雹が降って牛羊を殺しました。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代20 新王莽(二十) 行政の混乱 14年(2)