新更始時代38 新王莽(三十八) 劉縯兄弟の挙兵 22年(4)
今回も新王莽地皇三年です。
この頃、宛の人・李通等が図讖の説を使って劉秀に言いました「劉氏が再び起ち、李氏が輔(補佐)になります(劉氏復起,李氏為輔)。」
劉秀は初めは敢えて自分を預言に符合させようとは思いませんでしたが、兄の伯升がかねてから軽客(侠客?下の文に「親客」とあるので、ここも「親客」の誤りかもしれません)と結んでいるので、必ず大事を挙げるだろうという一点を考え、しかも王莽の敗亡は既に兆があり、天下が混乱に陥っていたため、ついに李通等と謀議を定め、兵弩を買い集めました。
十月、劉秀が李通の従弟・李軼等と宛で兵を起こします。
『後漢書・光武帝紀上』はこの後に「十一月、孛星が張(星宿)に現れた。劉秀が賓客を率いて舂陵に帰った。この時、伯升(劉縯)は既に衆と会して兵を挙げていた」と書いています。しかし『資治通鑑』は劉秀が舂陵に還って劉縯の挙兵を助けた事を「十一月の孛星」の前に書いています(再述します)。
李通の動きについて『資治通鑑』から少し詳しく書きます。
宛の人・李守は星暦、讖記を好み、かつて王莽の宗卿師になりました。
『後漢書・李王鄧来列伝(巻十五)』の注に「平帝元始五年(5年)に王莽が摂政して郡国に宗師を置き、宗室を管理させた。その時に(李守を)尊重したので、宗卿師と呼んだ」とあります。これを見ると「宗卿師」は「宗師」の尊称のようです。しかし『資治通鑑』胡三省注は「王莽は宗師を置いて漢の宗室を主管させただけだ(宗卿師という尊称はない)。この宗卿師は王莽が簒奪の時に置いた官である」としています。
李守がかつて子の李通にこう言いました「劉氏が立つはずだ。李氏が輔(補佐)になる(劉氏当興,李氏為輔)。」
やがて新市、平林の兵が起きて南陽が騒動すると、李通の従弟・李軼が李通に言いました「今は四方が擾乱(攪乱。混乱)しており、漢が復興するはずです。南陽の宗室では劉伯升兄弟だけが汎愛(博愛)で衆を許容しているので、大事を謀ることができるでしょう。」
李通が笑って言いました「我が意と同じだ(吾意也)。」
ちょうどこの時、劉秀が宛で穀物を売っていたため、李通は李軼を送って劉秀を迎えさせました。
劉秀に会った李軼は讖文の事を詳しく語り、互いに約を結んで計議を定めます。
李通は立秋の材官都試騎士の日(都試は軍事演習です。漢の法では立秋に都試を行って車騎や材官(歩兵。または予備兵)の評価をしました)に前隊大夫・甄阜と属正・梁丘賜(前隊はかつての南陽、大夫は太守、属正は都尉です)を脅迫し、その機に大衆に号令を出し、同時に李軼を劉秀と共に舂陵に帰らせ、兵を挙げて呼応させようとしました。
劉秀等の動きを受けて、劉縯が諸豪桀を集めて討議しました「王莽は暴虐で百姓が分崩(分裂。離散)している。今、連年枯旱が続き、兵革が並び起きた。これもまた天が(王莽を)亡す時であり、高祖の業を復し、万世を定める秋(時)である(此亦天亡之時,復高祖之業,定万世之秋也)。」
集まった者は皆納得しました。
劉縯は親客を諸県に分けて送り、兵を挙げさせました。劉縯自らも舂陵の子弟を動員します。
ところが諸家の子弟は恐懼して全て亡匿(逃走して隠れること)し、「伯升が私を殺すつもりだ(伯升殺我)!」と言いました。
やがて、劉秀(既に挙兵の準備を整えています)が絳衣(赤い服)大冠(『資治通鑑』胡三省注によると、大冠は武官の冠です。絳衣大冠は将軍の服装です)という姿で現れると、皆が驚いて言いました「謹厚(謹慎忠厚)の者でもこのようにするのか。」
人々がしだいに安心し、劉縯は子弟七八千人を得ます。
劉縯は賓客の部署を定めて「柱天都部」を自称しました。
この時、劉秀は二十八歳でした。
劉縯は族人・劉嘉を派遣し、新市、平林の兵を説得して招きました。彼等の帥・王鳳、陳牧と共に西の長聚を撃ちます。
劉縯等は軍を進めて唐子郷で屠します。『資治通鑑』胡三省注によると、「屠」は多数を誅殺するという意味です。
この時、軍中で分けた財物が均等ではなかったため、衆人が恚恨(怨恨)し、逆に諸劉(劉縯勢力)を攻めようとしました。
そこで劉秀は宗人が得た物を集めて全て分け与えました。衆人がこれに悦びます。
李軼や鄧晨等が賓客を率いて合流しました。
四方の盗賊が数万人で各地の城邑を攻め、二千石以下の官員を殺しました。
新の太師・王匡等は戦ってもしばしば不利になります。
王莽は天下が潰畔(叛乱離散)し、事が窮して計が逼迫していると知り、風俗大夫・司国憲(司国が氏です)等を天下に分けて巡行させることを議論しました。井田制や奴婢・山沢・六筦の禁(禁令)を除き、即位以来の詔令で民の利にならない内容を全て撤回しようとします。
しかし、使者が出発前の謁見を待っている間に、世祖(東漢光武帝・劉秀)と兄の斉武王・伯升(劉縯)や宛の人・李通等が舂陵の子弟数千人を率いて新市・平林の朱鮪、陳牧等を招致し、共に棘陽を攻めて攻略しました。
この頃、厳尤と陳茂が下江兵を破りました。
成丹、王常等数千人は別れて逃走し、南陽界に走ります。
『資治通鑑』は下江兵の動きを詳しく書いています。
その後、軍を率いて上唐で荊州牧と戦い、大破しました。
次回に続きます。