新更始時代40 新王莽(四十) 更始帝即位 23年(1)

今回は新王莽地皇四年。玄漢更始元年です。二月に劉玄が即位し、九月に王莽の新王朝が滅亡します。

新王莽地皇四年 玄漢劉玄更始元年
癸未 23

[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』『後漢書光武帝紀上』『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
春正月甲子朔、漢兵(劉縯軍)が下江兵王常等を得て助兵(援兵。援軍)とし(前年参照)、共に前隊大夫甄阜と属正梁丘賜(前隊はかつての南陽、大夫は太守、属正は都尉です)を攻めて沘水西で大破しました。
甄阜と梁丘賜を斬り、殺した新軍の士卒は二万余人に上りました(「二万余人」は『資治通鑑』の記述で、『漢書王莽伝下』では「数万人」です。『後漢書光武帝紀上』は「大破した」としか書いていません)
 
王莽が派遣した納言将軍厳尤と秩宗将軍陳茂が兵を率いて宛を拠点にしようとしましたが、劉縯と淯陽で戦って大敗しました。
劉縯は勝ちに乗じて軍を進め、宛を包囲します。
 
後漢書光武帝紀上』の注釈を見ると、「荘尤の字は伯石という。ここで『厳尤』としているのは東漢明帝(劉荘)の諱(実名)を避けたからだ」としています。この場合、「厳尤」の本来の姓名は「荘尤」になります。しかし東漢の皇帝の名を避ける必要がない『資治通鑑』は「厳尤」のままにしているので、この通史でも「厳尤」と書きます。
 
これ以前に青徐の賊(赤眉等)が数十万人の勢力になっていましたが、未だに文書(成文化した規定)、号令、旌旗や表識および部曲を設けていませんでした(既述)
京師の人々はそれを聞いて怪異に思い、好事者(物好き。変わった事を好む者。余計な事に口出しする者)は秘かにこう言いました「これは古の三皇に文書号諡がなかったのと同じではないか?」
王莽も心中で奇怪に思い、群臣に問いましたが、群臣で答えられる者はいません。
厳尤だけがこう言いました「これは怪しむに足りません。黄帝から湯(商成湯)西周武王)の行師(行軍)においては、必ず部曲旌旗号令を待ちました。今、これらがない者は、飢寒に遭って群盗になった犬羊の集まりに過ぎず(直飢寒群盗,犬羊相聚)、そのように為すことを知らないだけです。」
王莽は大いに喜び、群臣も皆感服しました。
 
後に劉伯升(劉縯)等の漢兵が起きると、それぞれが将軍を称し、城を攻めて地を攻略し、しかも甄阜を殺してから書を各地に送って王莽の罪を宣言しました(原文「移書称説」。『資治通鑑』胡三省注が「『称説』は王莽の罪を並べて譴責すること(数莽之罪)」と解説しています)
王莽はこれを聞いて憂懼し始めました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』『後漢書光武帝紀上』『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
舂陵戴侯の曾孫劉玄が平林兵の中におり、更始将軍を号していました。
当時、漢兵(新市、平林、下江や劉縯の勢力)は既に十余万を数えていましたが、兵が多いのに統一した指導者がいないため、諸将は天子を立てることを議論しました。劉氏を擁立して人望(人々の希望、期待)に順じようとします。
南陽の豪傑や下江兵の王常等は皆、劉縯を立てたいと思いました。
しかし新市と平林の将帥(朱鮪、陳牧等)は放縦な行動を楽しんでいたため、劉縯の威明(威厳英明)を畏れて嫌い、劉玄の懦弱を利用したいと考えました。そこであらかじめ劉玄を立てる策(計画)を定めてから、劉縯を招いて議題を示しました。
劉縯が言いました「諸将軍が幸いにも宗室を尊立することを欲しており、甚だ厚いことです(劉氏を非常に重んじています。原文「甚厚」)。しかし今、赤眉が青・徐で起って数十万の衆を擁しています。南陽が宗室を立てたと聞いたら、恐らく赤眉もまた立てる者が出るでしょう(赤眉も別の皇帝を立てるでしょう)。王莽がまだ滅んでいないうちに宗室が互いに攻撃し合ったら、天下を疑わせて(天下の人々に従うべき主を分からなくさせて)自ら権(権勢)を損なうことになるので(是疑天下而自損権)、これは王莽を破る方法ではありません。また、舂陵は宛から三百里離れているだけなので、急いで自ら尊立したら(皇帝を立てたら)、天下の準的(目標。矢の的)となり、後人に我々の疲弊に乗じる機会を与えてしまいます(後人得承吾敝)。よって、これは善い計ではありません(非計之善者也)。とりあえず王を称して号令を出すべきです。王の勢(権勢)でも諸将を斬るには足ります。もし赤眉が立てた者が賢なら、共に衆を率いてそれに従いに行っても、必ず(彼等が)我々の爵位を奪うことはありません。もし(赤眉が)立てる者がいなかったら、王莽を破り、赤眉を降し、その後、尊号を挙げても晩くはありません。」
諸将の多くが「その通りだ(善)」と言いましたが、張卬が剣を抜いて地を撃ち、こう言いました「事を疑っていたら功を立てられません(戦国時代、趙武霊王が胡服を推進した時に肥義が言った言葉です。原文「疑事無功」)。今日の議は異論があってはなりません(不得有二)。」
結局、皆、劉玄を皇帝に立てる意見に従いました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、司馬彪の『続漢書』では「張卬」を「張印」としており、袁宏の『後漢紀』では「張斤」としていますが、どちらも誤りです。『資治通鑑』は范曄の『後漢書』に従っています。
 
二月辛巳朔、淯水辺の沙地に壇場を設置し、兵を並べて大会を開きました。劉玄が皇帝の位に即きます。
劉玄は南面して立ちましたが、群臣を前にすると、元々懦弱な性格だったため、羞愧(恥じ入ること)のため汗を流し、手を挙げるだけで何も言えませんでした。
 
「二月辛巳」は『後漢書光武帝紀上』後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』の記述で、『漢書王莽伝下』では「三月辛巳朔」となっています。『資治通鑑』は『後漢書』に従っています。
一月のずれがあるのは、『漢書王莽伝下』が王莽による新暦を使っているからだと思われます(新王莽始建国元年9年参照)
これ以前の記述では、『資治通鑑』は『漢書王莽伝』の月日新暦をそのまま使っていましたが、ここからは『後漢書光武帝紀』等の月日(漢暦)を使うようになります。
尚、本年最初の「春正月」は『後漢書光武帝紀上』後漢書劉玄劉盆子列伝』『資治通鑑』とも共通しており、『漢書王莽伝下』にも「正月」という記述があるので、これは恐らく新暦です。
 
本文に戻ります。
劉玄は大赦して更始という年号を建てました。更始政権の誕生です(この後は劉玄を更始帝と書きますが、更始は諡号ではなく年号です)
 
更始帝が諸将に官位を与えて百官を置きました。族父(曾祖父の兄弟の孫。父の従兄弟)の劉良を国三老に、王匡を定国上公に、王鳳を成国上公に、朱鮪を大司馬に、劉縯を大司徒に、陳牧を大司空に任命し、その他は九卿将軍にします。
劉玄の即位は豪傑を失望させ、多くが服従しなくなりました。
資治通鑑』胡三省注はこう解説しています「王匡と王鳳は位が上公になり、定国と成国の美号が加えられた。九卿将軍は、職は九卿でそれぞれ将軍の号を帯びた。王莽の制度と同じである。また、豪桀は劉縯を立てようと欲したのに劉玄が立ったため、失望することになった。」
 
諸将が任命された時、劉秀も太常偏将軍になりました。
太常は秦代から踏襲された官で、元は奉常といいましたが、西漢景帝の時代に太常に改名されました。
『東観漢記(巻一)』には「更始が立って上(劉秀)を太常偏将軍にした。(劉秀は)当時は印がなく、定武侯家の丞印を得て、それを佩して入朝した」と書かれています。
「定武侯」が誰を指すのかは分かりません。『後漢書光武帝紀上』の注もこの記述を引用しており、「定武侯」について中華書局『後漢書光武帝紀上』による校勘記が「『前書漢書』には定武侯の記述がない。班氏(『漢書』の編者)が漏らしたのか(班奪)、『東観記』の誤りかは分からない」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。