新更始時代43 新王莽(四十三) 昆陽の戦い 23年(4)

今回も新王莽地皇四年の続きです。
 
[(続き)] 王尋と王邑が兵を放って昆陽の包囲を開始しました。
厳尤が王邑を説得しようとして「昆陽は城が小さいとはいえ堅固です。今、偽の号を称している者(原文「假号者」。更始帝を指します)は宛におり、急いで大兵(大軍)を進めれば、彼等は必ず奔走します。宛が敗れたら、昆陽は自ずから服します」と言いました。
しかし王邑はこう答えました「わしは昔、虎牙将軍として翟義を包囲したのに、生け捕りにできなかった罪に坐して責譲(譴責)に遭った。今、百万の衆を指揮しながら、城に遇っても落とせなかったら、威を示すことにならず、言い逃れもできない何謂邪)。まずこの城を屠すべきだ(皆殺しにするべきだ)。血を踏みながら前進し(蹀血而進)、前で歌って後ろで舞うのは、愉快なことではないか(前歌後舞,顧不快邪)。」
 
この厳尤と王邑のやり取りは『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』の記述を元にしました(但し、『光武帝紀上』には「まずこの城を屠すべきだ」以降の言葉はありません)
漢書王莽伝下』はこう書いています。
厳尤が言いました「尊号を称している者(称尊号者)は宛下にいます。急いで進むべきです。彼が破れれば、諸城は自ずから定まるでしょう。」
王邑はこう言いました「百万の師が通過する場所は全て滅ぼすべきだ(所過当滅)。今、この城を屠し、血を踏みながら前進し、前で歌って後ろで舞うのは、愉快なことではないか。」
 
本文に戻ります。
王邑が数十層の包囲を設けました。百数の営が連なり、高さ十余丈もある雲車が城壁に臨んで中を俯瞰します。旗幟が野を覆い、埃塵(砂塵)が天を満たし、鉦鼓の音が数十里(『後漢書光武帝紀上』では「数百里」ですが、『資治通鑑』は「数十里」に書き換えています)に響きました。
一部の兵は地道(地下)を掘り、衝輣(兵車。「衝車」は城門や城壁を破壊する車で、「輣車」は楼車です)が城壁にぶつかり、積弩(連射の弩)が乱発して矢が雨のように降り注ぎました。城中の人々は水を汲む時も戸を背負って行動します。
城内の王鳳等が投降を乞いましたが許されませんでした。
 
王尋と王邑は功績が目前にあると信じ(自以為功在漏刻)、軍事で憂いることはなく、完全に油断しました(意気甚逸)
 
ある夜、流星が新軍の営内に落ちました。昼には雲が現れて、山が崩れるように新軍の陣営に向かって降りて来ました。雲は地面から一尺もないところで散ってなくなります。新の吏士が皆倒れて地に伏しました。
 
厳尤が言いました「『兵法』には『城を囲んだら闕(欠け。穴。逃げ道)を作る(囲城為之闕)』とあります(『資治通鑑』胡三省注によると、『孫子』に「囲師必闕」とあり、曹操が『孫子註』で『司馬法』を引用して、「その三面を囲み、その一面を開ける(闕其一面)。こうして生路を示す」と書いています)(城内の者を)逸出(脱出)できるようにして、宛下(宛を攻めている更始の兵)を怖れさせるべきです。」
王邑はこの意見も聴きませんでした。
 
この厳尤と王邑のやり取りは『資治通鑑』の記述を元にしました。『漢書王莽伝下』はこう書いています。
厳尤がまた王邑に言いました「『帰る軍(退却する軍)は遮ってはならず、城を囲んだら闕を作る(帰師勿遏,囲城為之闕)』というものです。兵法のように行動し、逸出できるようにして宛下を怖れさせるべきです。」
王邑はこれも聴きませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
宛城は棘陽守長岑彭(『資治通鑑』胡三省注によると、岑は旧岑子国の後代です。西周文王が異母弟耀の子渠を岑子に封じました)と前隊貳(副官)厳説が守っていました。
資治通鑑』胡三省注によると、王莽は厳説を前隊大夫甄阜の副官に任命しました。
 
漢兵が包囲攻撃して数カ月になり、城中が飢餓に苦しんだため、岑彭等はついに城を挙げて降伏しました。
更始帝が入城して宛を都にしました。
 
このように『資治通鑑』は五月に宛を落として更始帝が入城したとしていますが、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』では「五月、伯升(劉縯)が宛を抜いた。六月、更始帝が宛に入って都とし、宗室および諸将を全て封じた。列侯になった者は百余人いた」と書いています。
宛に入ってから百余人を封侯したという記述は、『資治通鑑』は引用していません。
 
資治通鑑』に戻ります。
諸将が岑彭を殺そうとしましたが、劉縯がこう言いました「岑彭は郡の大吏であり、専心して城を固く守ったのは(執心固守)その節である。今は大事を挙げたところなので、義士を表彰するべきであり、彼を封侯したほうがいい。」
更始帝は岑彭を帰徳侯に封じました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
昆陽を出た劉秀は郾や定陵に至って諸営の兵を全て動員させようとしました。しかし諸将は財物を貪り惜しんだため、一部の兵を裂いてそれを守ろうとします。
劉秀が言いました「今もし敵を破ったら、珍宝が万倍になり、大功を成せる。逆にもし敗れることになったら、首領も残らなくなるのに(首を斬られるという意味です。原文「首領無余」)、何の財物があるというのだ(何財物之有)!」
諸将は劉秀に従って全ての兵を動員しました。
 
六月己卯朔、劉秀と諸営の将兵が共に進みました(漢書王莽伝下』は「世祖光武帝劉秀)が郾、定陵の兵数千人をことごとく動員して昆陽を救いに来た」と書いています。『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』には兵数の記述がありません)
 
劉秀は自ら歩騎千余を率いて前鋒になり、新の大軍から四五里離れた場所に陣を構えました。
王尋と王邑も兵数千を送って交戦します。
劉秀は(戦場を)駆けまわって数十級を斬首しました。
諸部の将が喜んで言いました「劉将軍は平生(いつも)なら小敵を見て怯えているのに、今は大敵を見て勇猛になった。甚だ不思議なことだ(甚可怪也)。しかもまた前に居る。将軍を助けることを請う(将軍を助けたい。将軍を助けに行こう)。」
 
諸将の言葉の原文は「劉将軍平生見小敵怯,今見大敵勇,甚可怪也。且復居前,請助将軍」です。
劉秀の戦い方を見ながら諸将が語った言葉なのか、劉秀が帰還してから諸将が迎え入れて語った言葉なのか、また、「且復居前」は「劉秀がまた陣頭にいる」という意味なのか、「敵がまた目前に来た」という意味なのか、解釈の仕方で複数の訳ができます。
例えば、帰還した劉秀に諸将が語った言葉だとしたら、「劉将軍は平生なら小敵を見て怯えているのに、今は大敵を見て勇猛になりました。甚だ不思議なことです。また敵が目前に迫りました。将軍を助けることを請います(将軍と共に出撃させてください)」と訳すこともできます。
 
劉秀がまた進撃しました。王尋、王邑の兵が後退します。諸部が共に乗じて数百千級(数百から千級)を斬首しました。
劉秀軍は連勝して前進を続けました。
 
この時、劉縯が宛を攻略して既に三日が経っていましたが、劉秀はそれを知りませんでした。
劉秀は偽の使者に書を持たせて昆陽城内に「宛下の兵が到着した」と伝えさせ、わざとその書を落として失ったふりをしました。
王尋と王邑は書を入手して不快になりました。
 
漢の諸将は連勝したおかげで胆気(度胸と気迫)がますます盛んになり(膽気益壮)、誰もが一人で百人に匹敵するほどになりました。
 
そこで、劉秀は敢死者(決死隊)三千人と共に城西の川岸から新軍の中堅(中軍。主将がいるので堅く守られています。そのため、中堅といいます)を衝きました。
王尋と王邑は漢軍を軽視していたため、自ら万余人を率いて陣内を巡行し、諸営にその場から動かないように厳しく命じました。単独で漢兵を迎え撃ちます。
交戦の結果、新軍が不利になりましたが、大軍は勝手に動いて助けに行くことができません。
王尋と王邑の陣が混乱し、漢兵が戦勝の鋭(気勢)に乗じてこれを崩壊させます。王尋は殺されました。
 
この時、城中の兵も戦鼓を敲いて喚声を上げ、出撃しました。中と外が威勢を合わせ、叫び声が天地を振わせます(震呼動天地)
王邑は敗走し、王莽軍は混乱に陥って大壊滅しました。走って逃げる者が互いに踏み合い、百余里の地に屍が伏します。
ちょうど大雷と大風に遭い、屋根の瓦が全て飛ばされ、雨が降り注ぎました。滍川(滍水。『資治通鑑』胡三省注によると、南陽魯陽県西の堯山が水源で、東南に流れて昆陽城北を経由し、東の汝水に入ります)が水かさを増して溢れ出します。
崩壊した王莽の大軍が号呼し(叫び声を上げ)、虎豹も全て股戦(戦慄。懼れ震えること)しました。逃走する士卒が争って川に向かい、溺死者が万を数え、そのために水が流れなくなるほどでした。
王邑、厳尤、陳茂は軽騎で死人を踏みながら川を渡って逃走しました。
 
漢軍が新の軍実(軍中の物資)輜重を全て奪いました。車甲・珍宝といった物資は数え切れず、数カ月経っても輸送が終わらないため、一部の余った物は焼き捨てたほどです。
 
王莽の士卒は奔走してそれぞれ自分の郡に還りました。王邑だけは自分が率いる長安の勇敢な士数千人と共に洛陽に還ります。
関中の人々は大敗の情報を聞いて恐れ震えました。
 
この後、海内の豪桀が一斉に呼応し(翕然響応)、各地で牧守を殺して将軍を自称しました。彼等は漢の年号を使って詔命を待ちます。
こうした動きは旬月(一月)の間に天下に拡がりました。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代44 新王莽(四十四) 劉縯の死 23年(5)