新更始時代50 更始劉玄(二) 劉秀の北上 23年(11)

今回も玄漢劉玄更始元年の続きです。
 
[二十九] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
更始帝は洛陽に入ってから、親近する大将に河北を巡行させようとしました。
大司徒劉賜が言いました「諸家の子では、文叔(劉秀の字)だけが用いることができます。」
資治通鑑』胡三省注によると、「諸家の子」は南陽諸宗の子を指します。
 
朱鮪等が劉賜の意見に反対したため、更始帝は狐疑(疑って躊躇すること。狐は疑い深いため、「狐疑」といいます)しましたが、劉賜の懇切な推薦によって、更始帝は劉秀を破虜将軍のまま行大司馬事(大司馬代理)に任命し、州郡を鎮慰(鎮撫)するために符節を持って黄河を北に渡らせました。
 
後漢書光武帝紀上』の注が『続漢志』の記述を引用しています「更始帝の時代、南方にこのような童謡があった『諧(和諧。調和)するか諧しないかは赤眉にあり、得るか得ないかは河北にある(諧不諧在赤眉。得不得在河北)。』
後に更始帝が赤眉に殺されるのは不諧だったから(和諧できなかった)であり、光武帝が河北から興隆したのはこれを得たからである」。
 
[三十] 『資治通鑑』からです。
大司徒劉賜を丞相に任命し、先に関(函谷関)に入って宗廟、宮室を修築させました。
資治通鑑』胡三省注は「長安を都にするためだ」と解説しています。
 
この『資治通鑑』の記述は『後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』が元になっています。『宗室四王三侯列伝』はこう書いています「更始帝は即位してから劉賜を光禄勳に任命し、広漢侯に封じた。伯升(劉縯)が殺害されてからは(劉賜が)代わりに大司徒になり、兵を率いて汝南を討った。
汝南を平定する前に、更始帝が劉信を奮威大将軍に任命し、劉賜に代わって汝南を撃たせた。劉賜は更始帝と共に洛陽に至った。(中略)劉賜が深く勧めたため、更始帝は光武(劉秀)を行大司馬に任命し、符節を持って黄河を渡らせた。この日、更始帝は)劉賜を丞相に任命し、先に入関を命じて、宗廟宮室を修築させた。劉賜が長安から)還って更始帝を迎え、長安に遷都した長安遷都以降の事は翌年に再述します)更始帝は劉賜を宛王に封じて前大司馬に任命し、符節を持って関東を鎮撫させた。」
 
このように更始帝は洛陽に入ったばかりなのに慌ただしく長安に遷都しました。
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』は劉賜が先行して長安に入ったことには触れていませんが、長安遷都の準備についてはこう書いています「更始帝が北の洛陽を都にして劉賜を丞相に任命した。申屠建、李松が長安から(王莽の)乗輿服御を輸送し、また、長安の)中黄門の従官を(東に)派遣して更始帝長安への)遷都を迎え入れさせた。」
申屠建と李松が長安から皇帝が使う車馬や服、器物を送ったのは、長安への遷都における儀仗で必要になるからだと思います。
長安への遷都は翌年に行われます。
 
[三十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
大司馬劉秀が河北に至りました。
劉秀は「行大司馬事」ですが、『資治通鑑』のこの後の記述では全て「大司馬」と書かれています。正式に大司馬に任命されたのかもしれません。
 
劉秀は通った郡県(『後漢書光武帝紀上』では「部県」ですが、『資治通鑑』が「郡県」に置き換えています)でいつも二千石(郡守)、長吏(県令県長および県の丞尉)、三老(郷官)、官属に会い、下は佐史にまで及ぶ官吏を考察して、能力の有無によって黜陟(任用と罷免)しました。その様子は州牧が部事(州部の政務)を行うようです。
冤罪の囚徒を改めて裁いて釈放し(平遣囚徒)、王莽の苛政(惨暴な政令、または複雑な政令を除き、漢の官名を恢復しました。
喜悦した吏民が争って牛酒を持って迎え入れ、漢兵を慰労しようとしましたが、劉秀は全て受け取りませんでした。
 
南陽の人鄧禹が馬に鞭打って劉秀の後を追い、鄴で追いつきました。
劉秀が問いました「私は封拝(封爵と任官)を自由にできる(我得専封拝)。生(あなた。先生)が遠くから来たのは、仕官を欲したからか(寧欲仕乎)?」
鄧禹は「(仕官を)願いません(不願也)」と答えました。
劉秀がまた問いました「それならば、何を欲しているのだ(何欲為)?」
鄧禹が言いました「明公が威徳を四海に加え、禹(私)は尺寸の力を尽くす機会を得て(禹得効其尺寸)、竹帛に功名を残すこと(垂功名於竹帛)を願うだけです」
劉秀は笑って鄧禹を留めて宿泊させ、個人的に語りあいました。
 
鄧禹が進言しました「今、山東はまだ安定せず、赤眉、青犢の属(類)が万を数える衆を動かしています。更始は常才(凡才)で自ら聴断(決断)できず、諸将も皆、庸人(凡人)が屈起(身を起こすこと)し、志は財幣にあり、争って威力を用い、朝夕(朝から夜まで)自分を楽しませているだけです(自快而已)。忠良明智、深慮遠図があって、主を尊んで民を安んじることを欲している者達ではありません。往古の聖人の興(興隆)を歴観すると、二科(二種類の基準)があるだけです。それは天時と人事です。今、天時によってこれを観ると、更始が既に立ったのに災変が興きています。人事によってこれを観ると、帝王の大業とは凡夫に任せられるものではありません。分崩離析(崩壊分裂)の形勢は既に見えています。明公は藩輔(補佐)の功を建てましたが、恐らく(大業を)完成させることはできないでしょう(猶恐無所成立也)。そもそも、明公はかねてから盛徳と大功があるので、天下が嚮服(敬慕、帰服)するところとなっており、軍政は斉粛(規律正しく厳粛なこと)で、賞罰も明信(明らかで信があること)です。今の計を考えるなら、英雄を延攬(招致)し、務めて民心を悦ばせ、高祖の業を立てて、万民の命を救うこと以外にありません。公をもって天下を考えるなら、定めるのは難しくありません(原文「以公而慮天下不足定也」。「不足」は「不難(難しくない)」の意味です)。」
劉秀は大いに喜び、この後、鄧禹を帳中に宿泊させ、共に計議を定めるようになりました。
 
劉秀は諸将を任命したり派遣する際、多くの時に鄧禹を訪ねて意見を求めました。鄧禹はいつも相応しい人材を劉秀に勧めます(皆当其才)
資治通鑑』胡三省注は「鄧禹は中興の元功となるが、実にここから始まる(実本諸此)」と書いています。
 
劉秀は兄の劉縯が殺されてから、一人の時は酒肉を口にしなくなりました。枕席(枕や蓆。寝床)には涙を流した痕があります。
主簿馮異が単独で叩頭しながら寛譬(慰めて諫めること)すると、劉秀はそれを止めて「卿は妄言するな」と言いました。
そこで馮異がこう進言しました「更始の政は乱れ、百姓は依戴(帰服擁戴)するところがありません。人は久しく飢渴したら容易に充飽(満足)するものです。今、公は方面で専命しているので(広い地域で自由に行動できる特権を持っているので)、官属を分遣して郡県を徇行(巡行)させ、恵沢を宣布するべきです。」
劉秀はこの意見を採用しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、馮異は父城で劉秀に帰順してから司隸主簿に任命されました。その後、黄河を渡るに及んで大司馬主簿になりました。
 
騎都尉宋子(県名)の人耿純が邯鄲で劉秀を謁見しました。
資治通鑑』胡三省注によると、これ以前に李軼が更始帝の命によって耿純を騎都尉に任命していました。
 
耿純は退出してから劉秀の官属将兵の法度(規則)が他将と異なるのを見て、自ら劉秀と関係を結びました(遂自結納)
 
 
 
次回に続きます。