新更始時代50 更始劉玄(二) 劉秀の北上 23年(11)
今回も玄漢劉玄更始元年の続きです。
更始帝は洛陽に入ってから、親近する大将に河北を巡行させようとしました。
大司徒・劉賜が言いました「諸家の子では、文叔(劉秀の字)だけが用いることができます。」
朱鮪等が劉賜の意見に反対したため、更始帝は狐疑(疑って躊躇すること。狐は疑い深いため、「狐疑」といいます)しましたが、劉賜の懇切な推薦によって、更始帝は劉秀を破虜将軍のまま行大司馬事(大司馬代理)に任命し、州郡を鎮慰(鎮撫)するために符節を持って黄河を北に渡らせました。
『後漢書・光武帝紀上』の注が『続漢志』の記述を引用しています「更始帝の時代、南方にこのような童謡があった『諧(和諧。調和)するか諧しないかは赤眉にあり、得るか得ないかは河北にある(諧不諧在赤眉。得不得在河北)。』
大司徒・劉賜を丞相に任命し、先に関(函谷関)に入って宗廟、宮室を修築させました。
この『資治通鑑』の記述は『後漢書・宗室四王三侯列伝(巻十四)』が元になっています。『宗室四王三侯列伝』はこう書いています「更始帝は即位してから劉賜を光禄勳に任命し、広漢侯に封じた。伯升(劉縯)が殺害されてからは(劉賜が)代わりに大司徒になり、兵を率いて汝南を討った。
汝南を平定する前に、更始帝が劉信を奮威大将軍に任命し、劉賜に代わって汝南を撃たせた。劉賜は更始帝と共に洛陽に至った。(中略)劉賜が深く勧めたため、更始帝は光武(劉秀)を行大司馬に任命し、符節を持って黄河を渡らせた。この日、(更始帝は)劉賜を丞相に任命し、先に入関を命じて、宗廟・宮室を修築させた。劉賜が(長安から)還って更始帝を迎え、長安に遷都した(長安遷都以降の事は翌年に再述します)。更始帝は劉賜を宛王に封じて前大司馬に任命し、符節を持って関東を鎮撫させた。」
『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』は劉賜が先行して長安に入ったことには触れていませんが、長安遷都の準備についてはこう書いています「更始帝が北の洛陽を都にして劉賜を丞相に任命した。申屠建、李松が長安から(王莽の)乗輿・服御を輸送し、また、(長安の)中黄門の従官を(東に)派遣して更始帝の(長安への)遷都を迎え入れさせた。」
長安への遷都は翌年に行われます。
大司馬・劉秀が河北に至りました。
劉秀は「行大司馬事」ですが、『資治通鑑』のこの後の記述では全て「大司馬」と書かれています。正式に大司馬に任命されたのかもしれません。
劉秀は通った郡県(『後漢書・光武帝紀上』では「部県」ですが、『資治通鑑』が「郡県」に置き換えています)でいつも二千石(郡守)、長吏(県令・県長および県の丞・尉)、三老(郷官)、官属に会い、下は佐史にまで及ぶ官吏を考察して、能力の有無によって黜陟(任用と罷免)しました。その様子は州牧が部事(州部の政務)を行うようです。
喜悦した吏民が争って牛酒を持って迎え入れ、漢兵を慰労しようとしましたが、劉秀は全て受け取りませんでした。
劉秀が問いました「私は封拝(封爵と任官)を自由にできる(我得専封拝)。生(あなた。先生)が遠くから来たのは、仕官を欲したからか(寧欲仕乎)?」
鄧禹は「(仕官を)願いません(不願也)」と答えました。
劉秀がまた問いました「それならば、何を欲しているのだ(何欲為)?」
鄧禹が言いました「明公が威徳を四海に加え、禹(私)は尺寸の力を尽くす機会を得て(禹得効其尺寸)、竹帛に功名を残すこと(垂功名於竹帛)を願うだけです」
劉秀は笑って鄧禹を留めて宿泊させ、個人的に語りあいました。
鄧禹が進言しました「今、山東はまだ安定せず、赤眉、青犢の属(類)が万を数える衆を動かしています。更始は常才(凡才)で自ら聴断(決断)できず、諸将も皆、庸人(凡人)が屈起(身を起こすこと)し、志は財幣にあり、争って威力を用い、朝夕(朝から夜まで)自分を楽しませているだけです(自快而已)。忠良明智、深慮遠図があって、主を尊んで民を安んじることを欲している者達ではありません。往古の聖人の興(興隆)を歴観すると、二科(二種類の基準)があるだけです。それは天時と人事です。今、天時によってこれを観ると、更始が既に立ったのに災変が興きています。人事によってこれを観ると、帝王の大業とは凡夫に任せられるものではありません。分崩離析(崩壊分裂)の形勢は既に見えています。明公は藩輔(補佐)の功を建てましたが、恐らく(大業を)完成させることはできないでしょう(猶恐無所成立也)。そもそも、明公はかねてから盛徳と大功があるので、天下が嚮服(敬慕、帰服)するところとなっており、軍政は斉粛(規律正しく厳粛なこと)で、賞罰も明信(明らかで信があること)です。今の計を考えるなら、英雄を延攬(招致)し、務めて民心を悦ばせ、高祖の業を立てて、万民の命を救うこと以外にありません。公をもって天下を考えるなら、定めるのは難しくありません(原文「以公而慮天下不足定也」。「不足」は「不難(難しくない)」の意味です)。」
劉秀は大いに喜び、この後、鄧禹を帳中に宿泊させ、共に計議を定めるようになりました。
劉秀は諸将を任命したり派遣する際、多くの時に鄧禹を訪ねて意見を求めました。鄧禹はいつも相応しい人材を劉秀に勧めます(皆当其才)。
劉秀は兄の劉縯が殺されてから、一人の時は酒肉を口にしなくなりました。枕席(枕や蓆。寝床)には涙を流した痕があります。
主簿・馮異が単独で叩頭しながら寛譬(慰めて諫めること)すると、劉秀はそれを止めて「卿は妄言するな」と言いました。
そこで馮異がこう進言しました「更始の政は乱れ、百姓は依戴(帰服擁戴)するところがありません。人は久しく飢渴したら容易に充飽(満足)するものです。今、公は方面で専命しているので(広い地域で自由に行動できる特権を持っているので)、官属を分遣して郡県を徇行(巡行)させ、恵沢を宣布するべきです。」
劉秀はこの意見を採用しました。
騎都尉・宋子(県名)の人・耿純が邯鄲で劉秀を謁見しました。
次回に続きます。