新更始時代59 更始劉玄(十一) 赤眉の西進 24年(8)

今回で玄漢劉玄更始二年が終わります。
 
[十五] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
赤眉の樊崇等が兵を率いて潁川に入り、その衆を二部に分けました。樊崇と逢安が一部、徐宣、謝祿、楊音が一部です。
樊崇と逢安は長社を攻めて攻略し、南の宛を撃って県令を斬りました。
徐宣、謝祿等も陽翟を攻略し、兵を率いて梁に向かい、河南太守を撃って殺しました。
 
赤眉は何回も戦に勝ってきましたが、疲弊して戦を嫌い(疲弊厭兵)、皆、日夜愁いて泣いていました。東に帰ることを欲するようになります。
樊崇等は今後の方針を計議し、部衆が東に向かったら必ず分散してしまう(兵達が故郷に帰ってしまうためです)と考えました。東に帰るよりも西の長安を攻めた方がいいと判断します。
そこで樊崇と逢安が武関から、徐宣等が陸渾関から、二路に分かれて長安に向かいました。
 
更始帝は王匡と成丹に命じ、抗威将軍劉均等と共に河東と弘農に分れて、拠点を造って赤眉軍を防がせました。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』の「劉玄伝」は「十二月、赤眉が西に向かって入関(関中に入る関は、通常は函谷関を指します)した」と書いており、『後漢書光武帝紀上』にも「青犢と赤眉賊が函谷関に入って更始を攻めた」とあります。しかし上述の通り『後漢書劉玄劉盆子列伝』の「劉盆子伝」では、赤眉は武関と陸渾関の二路から長安に向かっており、『資治通鑑』はこれに従っています。
武関と陸渾関の他にも、青犢勢力と赤眉の一部が函谷関を通って西に向かったのかもしれません。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
蕭王劉秀は北の燕趙を攻略しようとしていましたが、赤眉が必ず長安を破ると予測し、更始赤眉の乱に乗じて関中を併呑しようと欲しました。しかし誰に委ねるべきか判断ができません。そこで鄧禹を前将軍に任命し、麾下の精兵二万人を分け与え、西進して関(函谷関)に入らせることにしました。鄧禹には自分で偏裨(偏将裨将)以下、同行させるにふさわしい者を選ばせます。
 
この時、更始政権の大司馬朱鮪、舞陰王李軼や田立、陳僑が兵を指揮して三十万と号しており、河南太守武勃と共に洛陽を守っていました。
また、鮑永と田邑が并州にいました。
劉秀は河内が険要な地で物資も豊富だったため(険要富実)、諸将の中から河内を守れる者を選ぼうとしましたが、人選が困難でした。
そこで鄧禹に意見を求めると、鄧禹はこう言いました「寇恂は文武を充分備えており(文武備足)、牧人御衆の才(人を治めて大衆を統御する才能)があります。彼でなければ任命できる者はいません(非此子莫可使也)。」
劉秀は寇恂を河内太守行大将軍事(大将軍代理)に任命しました。
蕭王劉秀が寇恂に言いました「昔、高祖が蕭何を関中に留め、今、私は公(あなた)に河内を委ねる。軍糧を給足(充足)させ、士馬を率厲(統率。訓練)し、他の兵を防遏(防衛制止)して、北に渡らせてはならない。」
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』はこう書いています。
「以前、鄧禹が鄴で初めて王(劉秀)に会った時、(鄧禹は)すぐに『河内を占拠することを欲する(河内を占拠するべきだ)』と言った(即言欲拠河内)。」
「更始の武陰王李軼が洛陽を拠点とし、尚書謝躬が鄴を拠点とし、それぞれ十余万の衆を擁していたため、王(劉秀)はこれを患い、河内を取って圧力を加えることにした。王が鄧禹に言った『卿はわしが河内を有すのは高祖が関中を有したのと同じだと言った。もし関中に蕭何がいなかったら、誰が一方を晏然(安寧)にさせ、高祖から西顧の憂を無くすことができただろうか。呉漢の能力は卿が挙げたものだ。今また、わしのために蕭何を挙げよ。』鄧禹が言いました『寇恂の才は文武を兼ねており、御衆の才があります。寇恂でなければ河内を安んじられる者はいません。』」
この『後漢紀』の記述に対して、胡三省注(『資治通鑑考異』)はこう解説しています「世祖光武帝劉秀)は更始と分離してから、まず河内、魏郡を得て、それを守ろうと欲したから関中に喩えたのである。元から心中で計を練って河内を取ることを欲したのではない(原文「非本心造謀即欲指取河内也」。先に河内を得たから守ろうとしたのであり、高祖が関中を取ったことに倣って河内を取る計画を立てたのではない)。」
 
本文に戻ります。
劉秀は馮異を孟津将軍(孟津は黄河の渡し場です)に任命し、河上黄河沿岸。ここでは孟津を指します)で魏郡と河内の兵を統率させました。洛陽の兵を拒むためです。
 
その後、劉秀は自ら鄧禹を野王まで送りました。
鄧禹が六裨将を率いて西に向かってから、劉秀は兵を還して北に向かいました。
 
河内を委ねられた寇恂は糇糧(食糧。「糇」は乾糧です)を調達し、器械を治めて(修理製造して)軍に供給しました。
この後、劉秀軍が遠征しても物資が絶えることはなくなりました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
隗崔と隗義が更始政権に叛して天水に帰ることを謀りました。
隗囂は禍が自分に及ぶことを恐れてこれを告発します。
更始帝は隗崔と隗義を誅殺し、隗囂を御史大夫にしました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、天水郡は西漢武帝の時代に置かれました。郡前に湖水があり、冬も夏も増減しなかったため、「天水」と名づけられました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
梁王劉永が封国を拠点にして兵を起こしました。諸郡の豪桀を招きます。
沛人周建等が将帥として配置され、済陰、山陽、沛、楚、淮陽、汝南の地で合わせて二十八城を攻略しました。
また、使者を送って西防(地名)の賊帥山陽の人佼彊(佼が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、周の大夫・原伯佼の後代です。または春秋時代に絞国があり、その後代です。子孫が「絞」の「糸」を「人」に改めました)を横行将軍に、東海の賊帥董憲を翼漢大将軍に、琅邪の賊帥張歩を輔漢大将軍に任命しました。
劉永は青徐二州を監督し、諸勢力と兵を合わせて東方を独占しました。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
の人秦豊が黎丘で挙兵し、や宜城等の十余県を攻めて取りました。一万人の衆を擁し、自ら楚黎王を号します。
 
漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』は新王莽地皇二年21年)にも「南郡の人秦豊が一万人近い衆を集めた」と書いています。
『欽定四庫全書・東観漢記(巻二十三)』には「秦豊県の人で、若い頃に長安で学び、律令の学問を授かった。後に帰って県吏になった。更始元年23年)に兵を挙げ、、宜城、若(鄀)、編、臨沮、中沮、廬、襄陽、鄧、新野、穰、湖陽、蔡陽を攻めて取り、その兵は合わせて万人に上った」と書かれています。
これらの記述を見ると、秦豊は新王莽の時代には挙兵していたようですが、具体的な時間ははっきりしないようです。
 
資治通鑑』胡三省注によると、と宜城の二県は南郡に属します。黎丘城はにあったようです(『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、黎丘城はの北に位置しています)秦豊は黎丘郷の人で、黎丘は楚の地にあったので、楚黎王を称しました。
 
[二十] 『資治通鑑』からです。
汝南の田戎が夷陵を攻めて落としました。
田戎は掃地大将軍を自称し、転戦しながら郡県で略奪して数万人の衆になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、夷陵県は南郡に属し、夷山があるため夷陵といいます。
 
田戎について『欽定四庫全書・東観漢記(巻二十三)』はこう書いています「田戎は西平の人で、同郡の人陳義と共に夷陵に客居し、群盗になった。更始元年23年)、陳義と田戎が兵を率いて夷陵を落とした。陳義は黎邱大将軍を自称し、田戎は埽地大将軍を自称した。」
また、『後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』の注は『襄陽耆旧記』東晋習鑿歯による地方志)から引用して「田戎は周成王を号し、陳義は臨江王を称した」と書いています。
 
資治通鑑』は「田戎が掃地大将軍を自称した」としか書いていませんが、あるいは掃地大将軍を自称して暫くしてから周成王を名乗ったのかもしれません。
また、田戎と共に陳義という人物も挙兵したようです。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代60 更始劉玄(十二) 公孫述即位 25年(1)