新更始時代62 更始劉玄(十四) 更始政権の分裂 25年(3)

今回も玄漢劉玄更始三年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
鄧禹が安邑を包囲しましたが、数カ月経っても攻略できませんでした。
そこで更始政権の大将軍樊参が数万人を率いて黄河を渡り、大陽(県名です。『資治通鑑』胡三省注によると、「大陽」は大河の陽(北)という意味で、河東郡に属します)に至って鄧禹を攻めようとしました。
しかし鄧禹が逆に解南で攻撃して樊参を斬りました。
 
王匡、成丹、劉均が軍を合わせて(兵を集めて)十余万で再び鄧禹を攻撃しました。今度は鄧禹軍が不利になります。
しかし翌日癸亥(二十六日)、王匡等は「六甲窮日」を理由に出撃しませんでした。鄧禹はその間に改めて兵を整えることができました。
「六甲窮日」は「干支が尽きる日」です。「癸」は十干の最後の日、「亥」は十二支の最後の日なので、王匡等はこの日を不吉だと考えました。
 
甲子(二十七日)、王匡が全軍を投じて鄧禹を撃ちました。
鄧禹は軍中に妄りに動かないように命じ、王匡等の軍が営下に迫ってから、諸将に伝令して戦鼓と共に並進させました。
鄧禹軍が大勝して王匡等は皆逃走します。
鄧禹は王匡の将劉均および河東太守楊宝を追撃して斬り、河東を平定しました。
王匡等は奔って長安に還りました。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』には「当時、王匡と張卬が河東を守っていたが、鄧禹に破れたため、奔って長安に還った」と書かれています。
しかし『後漢書鄧寇列伝(巻十六)』は「王匡、成丹、劉均等が軍を合わせて十余万で再び鄧禹を撃った」としており、張卬の名はありません。『資治通鑑』は『鄧寇列伝』に従っています。
 
張卬が諸将と議して言いました「赤眉は鄭と華陰の間という近い場所に居り、旦暮(朝夕)にも長安に)至る。今(我々には)長安があるだけなので、滅亡を見るまで久しくない。自らを富ますために、兵を整えて長安城中の物資を奪い、(ここから移動して)経由する地で転戦し、東の南陽に帰って宛王(劉賜)等の兵を収めた方がいい。事がもし成功しなくても(事若不集)、また湖池の中に入って盗を為すだけだ。」
張卬、申屠建、廖湛等は納得して共に入宮し、更始帝を説得しました。
しかし更始帝が怒って何も言わないため、諸将はそれ以上進言できなくなりました。
 
更始帝は王匡、陳牧、成丹、趙萌を新豊に駐屯させ、李松を掫(地名)に駐軍させて赤眉に対抗しました。
この一文は『資治通鑑』の記述で、この後に赤眉による劉盆子擁立を書いています(後述)。しかし、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』は「赤眉が劉盆子を立てると、更始帝は王匡、陳牧、成丹、趙萌を新豊に駐屯させ、李松を掫に駐軍させてこれに対抗した」と書いています。
新豊と掫への駐軍と劉盆子の即位はほぼ同時に進行していたのだと思われます。
 
更始帝が赤眉に備えて王匡や李松を派遣した間に、張卬、廖湛、胡殷、申屠建が御史大夫隗囂と共謀し、立秋の貙膢立秋の祭祀)の時に更始を脅かして前計南陽に帰る計)を実現させようと欲しました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』には「申屠建等は更始に帝位を譲るように勧めたが(退位を勧めたが)、更始が応じなかったため、申屠建等は脅迫を謀った(謀劫之)」と書かれており、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』『資治通鑑』の記述と若干異なります。
 
本文に戻ります。
侍中劉能卿が張卬、申屠建等の陰謀を知って更始帝に告げました。
更始帝は病を理由に立秋の祭祀に参加せず、逆に張卬等を招いて全て誅殺しようとします。
 
隗囂は病と称して入宮せず、賓客の王遵、周宗等と兵を整えて邸宅の守りを固めました。
張卬等が参内しましたが、更始帝は躊躇して誅殺の決断ができず、張卬等四人をとりあえず外廬で待機させました。
張卬、廖湛、胡殷は異変を疑い、宮門を突破して脱出します。
申屠建一人が宮内に残り、更始帝に斬られました。
 
更始帝は執金吾に兵を指揮して隗囂の邸宅を包囲させました。
しかし張卬、廖湛、胡殷が兵を率いて東西の二市で略奪し、空が暗くなってから(昏時)、宮門を焼いて進攻しました。宮中で戦って更始帝が大敗します。
隗囂も鄧の包囲を破って天水に走りました。
 
翌朝、更始帝が妻子と百余の車騎を率いて東に奔りました。新豊の趙萌を頼ります。
 
更始帝は王匡、陳牧、成丹も張卬等と共謀しているのではないかと疑い、三人を同時に招きました。
陳牧と成丹は先に到着してすぐに斬首されます。
懼れた王匡は兵を率いて長安に入り、張卬等と合流しました。
 
 
 
次回に続きます。