新更始時代63 更始劉玄(十五) 劉盆子即位 25年(4)

今回も玄漢劉玄更始三年の続きです。
 
[] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
赤眉が進軍して華陰に至りました。
赤眉の軍中には斉巫がおり(「斉巫」は斉国出身の巫で、斉地は現在の山東省周辺です。赤眉は斉地の出身だったため、斉の巫がいました)、常に福助を求めるために、鼓舞(太鼓を打って舞を踊ること)して城陽景王を祭っていました。
 
城陽景王は斉悼恵王劉肥西漢高帝の庶子の子劉章です。西漢初期に呂氏を滅ぼして文帝を擁立したため、城陽王に封じられました西漢文帝前二年178年参照)
後漢書劉玄劉盆子列伝』の注はこう書いています「城陽景王は)諸呂を平定して社稷を安定させたため、郡国の多くが城陽景王のために祠を建てた。」
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』に光武帝の子に当たる琅邪孝王劉京に関する記述があり、そこにもこう書かれています「(琅邪王)劉京は莒(樊崇が挙兵した地です)を都にした。(略)劉京の国には城陽景王祠があり、吏人が祠を奉じた。」
城陽景王の封地城陽莒の地に当たり、斉地に属します。斉地では早くから城陽景王に対する信仰が拡まっていたようです。
 
その巫が狂言を発しました「景王が大怒して『県官(天子)になるべきだ。なぜ賊になるのだ』と言った。」
巫を笑った者は皆、病を患ったため、軍中が驚いて動揺しました。
 
方望の弟方陽が更始帝に兄を殺されたことを怨んでいたため、今後の形勢を予測して樊崇等にこう言いました「更始が荒乱して政令が行われていないので、将軍をここに到らせました。しかし今、将軍は百万の衆を擁して西の帝城に向いていますが、称号がないため、名は群賊となっています。これでは久しくできません(長く存続できません。原文「不可以久」)。宗室を立てて、義によって誅伐する(挾義誅伐)べきです。この号令をもってすれば、誰が従わないでしょうか。」
樊崇等は方陽の意見に納得しました。
巫の言もますます甚だしくなったため、西進を続けて鄭に至った時、互いに相談してこう言いました「今、長安に迫近しており、鬼神もこのようなので、劉氏を求めて共に尊立するべきだ。」
 
以前、赤眉が式(泰山郡に属す県です。『後漢書』の注によると、東漢光武帝の中興後に県を廃されました)を通った時、元式侯劉萌の子劉恭、劉茂、劉盆子を捕まえて、三人に強制して従軍させました。
劉恭、劉茂、劉盆子は太山(泰山)式の人で、城陽景王劉章の子孫です。祖父劉憲が西漢元帝の時代に式侯に封じられ、父劉萌が跡を継ぎましたが、王莽が簒奪してから国が除かれました。式侯に封じられたため、式の人になりました。
 
漢書諸侯王表』を元に劉章以降の城陽王を列挙すると、共王劉喜、頃王劉延、敬王劉義、恵王劉武、荒王劉順、戴王劉恢(劉萌の兄弟)、孝王劉景、哀王劉雲と継ぎました。劉雲には子がいなかったため、一時断絶しましたが、西漢成帝が劉雲の弟(『漢書高五王伝(巻三十八)』では「劉雲の兄」です)劉俚を改めて封王しました。後に劉俚は王莽によって王位を廃されます。
漢書王子侯表下』によると、西漢元帝時代に城陽荒王劉順の子劉憲が式侯に封じられました。諡号は節侯です。劉憲の後を哀侯劉覇が継ぎましたが、子がいなかったため一時途絶えました。しかし成帝元延元年(前12年)、成帝が劉覇の弟劉萌に式侯の家を継がせました。
劉萌はその十九年後に侯位を廃されました。
 
劉恭は若い頃に『尚書』を習い、おおよその大義に通じていました。
赤眉に従軍してから、樊崇等に従って洛陽で更始帝に降り、改めて式侯に封じられました。
その後、明経に基いてしばしば進言したため、侍中に任命され、赤眉が更始政権から離れてからも長安更始帝に従いました。
劉茂と劉盆子は赤眉の軍中に留まり、右校卒史劉俠卿に属して牧牛を管理していました。「牛吏」と号しています。
資治通鑑』胡三省注によると、卒史は秩百石で、九卿寺や諸郡、軍の部校(一部隊)にそれぞれ卒史がいました。
 
樊崇等が帝を立てようとした時、軍中で城陽景王の後代を求めて七十余人を得ました。
その中で劉茂と劉盆子および元西安劉孝が最も近い親族に当たりました。
 
「劉孝」が誰かはよくわかりません。
かつて王莽が西漢平帝の後継者を選んだ時、「西安劉漢」という名がありました(平帝元始五年5年)
漢書王子侯表下』によると、西安劉漢は東平思王劉宇(宣帝の子)の孫で、平帝元始元年1年)に封侯され、八年で死にました。樊崇等が求めたのは城陽景王の後代なので、東平王の孫に当たる劉漢は該当せず、また、この時は既に死んでいます。
城陽景王の子孫で「西安侯・劉孝」という名は見当たりません。
 
樊崇等が議論して言いました「古では天子が兵を指揮する時、上将軍と称したと聞く。」
そこで樊崇等は札(木簡)を符にして「上将軍」と書き、二枚の何も書いていない札と一緒に笥(箱)に入れました。
鄭北に壇場を設け、城陽景王を祀り、諸三老や従事が全て陛下(階段の下)に集合します。
劉盆子等三人を壇の中央に並べて年齢順に札を箱の中から取らせました。最も年少の劉盆子が後から札を引いて符を得ます。
それを見て、諸将が皆、臣を称して拝礼しました。
この時、劉盆子は十五歳でした。髪は束ねず下に垂らしたままで(被髪)、足は裸足(徒跣)、服は古くて破れている(敝衣)という様相で、顔を赤くして汗を流していました(赭汗)。衆人の拝礼を見ると恐畏のため泣きだそうとします。
劉茂が言いました「符をしっかりしまいなさい(善臧符)。」
ところが劉盆子は符を噛み切って棄てると、劉俠卿を頼って帰ってしまいました。
劉俠卿は劉盆子のために絳単衣(「絳」は「赤」です。赤は火徳の漢の色です)と半頭赤幘(「半頭幘」は頭巾の一種で、冠礼前の男子が被りました)、直綦履(直線の模様が刺繍された靴)を作り、軒車大馬(大馬が牽く、囲いがついた馬車)に乗せました。車には赤い屏泥(車前の泥除け)がついており、車体は赤い幕で覆われていました(絳襜絡)
 
こうして劉盆子が即位して建世元年に改元しました。六月の事です。
 
樊崇は勇力によって起ちあがり、皆から尊重されていましたが、書数(学問)を知りませんでした。
徐宣はかつて県の獄吏を勤めており、『易経』に通じていたため、皆が徐宣を推して丞相にしました。
樊崇が御史大夫に、逄安が左大司馬に、謝禄が右大司馬になり、楊音以下の者も列卿や将軍に任命されます。
 
劉盆子は皇帝になりましたが、今までと同じように朝夕には劉俠卿を拝し、牧児について遊んでいました。
ある日、また外出して牧児と遊ぼうとしましたが、劉俠卿に怒られたためあきらめました。
 
樊崇等は劉盆子を皇帝として候視(挨拶すること。様子を伺うこと。ここでは謁見、拝謁の意味です)することがなくなりました。
 
 
 
次回に続きます。