東漢時代1 光武帝(一) 東漢光武帝

今回から東漢時代です。
 
世祖光武皇帝
姓は劉、名は秀、字は文叔といいます。
古代は兄弟の序列を「伯、仲、叔、季」という漢字で表しました。光武帝劉秀には二人の兄がいましたが、どちらも劉秀が即位する前に死んでいます。長兄劉縯は字を伯升といい、次兄は劉仲(字はわかりません。あるいは仲が字かもしれません)といいました。
劉秀は第三子なので字を文叔としました。
 
以下、『後漢書光武帝紀上』の本文と注釈からです。
劉秀は南陽蔡陽の人で、西漢高祖の九世孫に当たります(高祖を第一代とすると、光武帝は九代目になります)
高祖の孫・西漢景帝が劉発を生みました。しかし劉発の母唐姫が景帝の寵愛を得られなかったため、劉発は卑湿で貧しい長沙に封じられました。これを長沙定王といいます西漢武帝元朔元年128年参照)
 
その後、劉発が舂陵節侯買を生み、劉買が鬱林太守外を生み(郡守は秦から踏襲した官で、秩は二千石です。景帝が太守に改名しました)、劉外が鉅鹿都尉回を生み(都尉は以前の郡尉で、秦から踏襲した官です。主に郡守を輔佐して武職を担当します。秩は比二千石です。景帝が都尉に改名しました)、劉回が南頓令欽を生み(県令と県長も秦から踏襲した官です。万戸以上の県は令が治め、秩は千石から六百石です。万戸に満たない県は県長が治め、秩は五百石から三百石です)、劉欽が光武帝劉秀を生みました。
 
光武帝劉秀は九歳で孤児になり、叔父の劉良に養われました。
身長は七尺三寸あり、美須眉(美しい髭と眉)、大口、隆準(鼻が高いこと)、日角(額が盛り上がっていること)という容貌で、性格は稼穡(農業)に対して勤勉でした。
これに対して兄の伯升(劉縯)は俠を好んで士を養っていたため、劉秀が田業(農業)に従事していることを常に嘲笑して高祖の兄仲に喩えました(以上、新王莽地皇三年22年参照)
 
劉秀は新王莽地皇三年22年)に兄劉縯と共に挙兵しました。挙兵後の出来事は既に詳述したので、以下、簡単に書きます。
 
劉縯と劉秀は下江兵、新市兵、平林兵と合流して新軍と戦い、勢力を拡大しました。
新王莽地皇四年23年)、劉縯劉秀と下江兵、新市兵、平林兵の連合勢力が漢の皇族劉玄を皇帝に立てて更始元年に改元しました。
その後、劉秀が昆陽で新軍に大勝し、九月に更始軍が王莽の新王朝を滅ぼします。
 
しかし更始政権が長安に都を置いてからも天下は混乱したままでした。しかも更始政権は声望がある劉縯を殺してしまいます。
劉秀は暫くの間、更始帝服従していましたが、河北を討伐して王郎を滅ぼし、着々と足場を固めると(玄漢劉玄更始二年24年)、完全に更始政権から離脱しました。
そして、玄漢劉玄更始三年25年)六月己未(二十二日)、劉秀が皇帝の位に即き、漢王朝を復興させました。これを東漢後漢といいます。

東漢時代 光武帝即位

 
 
 
次回から東漢光武帝の時代に入ります。