東漢時代

東漢時代467 献帝(百四十九) 献帝譲位 220年(5)

今回で東漢時代が終わります。 [三十] 『資治通鑑』からです。 魏王・曹丕が丞相祭酒・賈逵を豫州刺史に任命しました。 当時は天下が安定したばかりで、(地方の政治はまだ混乱しており)刺史の多くが郡を統領できませんでした。 賈逵はこう言いました「州は…

東漢時代466 献帝(百四十八) 孟達 220年(4)

今回も東漢献帝延康元年の続きです。 [二十一] 『三国志・魏書二・文帝紀』本文および裴松之注と『資治通鑑』からです。 六月辛亥(初七日)、魏王・曹丕が東郊で治兵(閲兵)しました。 公卿が儀礼を助け(原文「公卿相儀」。誤訳かもしれません)、魏王が華…

東漢時代465 献帝(百四十七) 河西平定 220年(3)

今回も東漢献帝延康元年の続きです。 [十六] 『三国志・魏書二・文帝紀』本文と裴松之注からです・ 夏四月丁巳、饒安県が「白雉が現れた」と報告しました。 魏王・曹丕は饒安に田租を賜り(原文「賜饒安田租」。饒安の田租を免除したのだと思います)、勃海…

東漢時代464 献帝(百四十六) 黄龍 220年(2)

今回は東漢献帝延康元年の続きです。 [三] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』からです。 曹丕は王位に即いてから、司馬懿を河津亭侯に封じ、丞相長史に遷しました。 ちょうどこの時、孫権が兵を率いて西に向かいました。 魏の朝議では、樊と襄陽には穀物が無いため…

東漢時代463 献帝(百四十五) 曹操の死 220年(1)

今回は東漢最後の年です。 東漢献帝延康元年 魏文帝黄初元年 庚子 220年 正月に建安二十五年から延康元年に改元しますが、十月に漢王朝が滅んで魏王朝が始まり、再び黄初元年に改められます。 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書・孝献帝紀』と『資治…

東漢時代462 献帝(百四十四) 孫権と曹操 219年(10)

今回で東漢献帝建安二十四年が終わります。 [十五] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。 この年は大疫に襲われたため、(孫権が)荊州の民の租税を全て除きました。 [十六] 『資治通鑑』からです。 孫権が藩を称した時(魏に帰順した時)、魏王・曹操が張遼…

東漢時代461 献帝(百四十三) 関羽の死 219年(9)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [十四(続き)] 孫権は呂蒙を南郡太守に任命して孱陵侯に封じ、銭一億・黄金五百斤を下賜しました。 また、陸遜に宜都太守を領(担当)させました(領宜都太守)。 『三国志・呉書十三・陸遜伝』によると、陸遜は宜都…

東漢時代460 献帝(百四十二) 江陵陥落 219年(8)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [十四(続き)] 呂蒙が尋陽に至りました。 全ての精兵を𦩷𦪇(船の一種)の中に伏せ、白衣(平民)に櫓を漕がせました。彼等には商賈人(商人)の服を着させます。 昼夜兼行して関羽が置いた江辺の屯候(見張りの兵)…

東漢時代459 献帝(百四十一) 徐晃 219年(7)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [十四(続き)] 魏王・曹操が漢中に出た時、曹仁を助けるために平寇将軍・徐晃を宛に駐屯させました。 ここは『資治通鑑』の記述を元にしました。原文は「魏王操之出漢中也,使平寇将軍徐晃屯宛以助曹仁」です。「魏王…

東漢時代458 献帝(百四十) 呂蒙と陸遜 219年(6)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [十四] 『三国志・蜀書二・先主伝』からです。 孫権が関羽を襲って殺し、荊州を取りました。 以下、『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』から詳しく書きます。 陸渾の民・孫狼等が乱を為しました。県の主簿を殺…

東漢時代457 献帝(百三十九) 楊脩 219年(5)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [十一] 『資治通鑑』からです。 以前、丞相主簿・楊脩と丁儀兄弟が曹植を魏の後嗣に立てようと謀りました(曹丕が太子になる前の事です)。 『資治通鑑』胡三省注によると、楊脩は漢の丞相主簿で、曹操の官属です。 …

東漢時代456 献帝(百三十八) 関羽の進撃 219年(4)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [九] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 孫権が合肥を攻めました。 当時は諸州の兵が淮南を守っていました。 『資治通鑑』胡三省注によると、魏が漢の九江郡を淮南郡に改めま…

東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [七] 『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月庚子、劉備が自ら漢中王を称しました。 沔陽に壇場を設け、兵を並べて陣を布き(陳兵列衆)、群臣が陪位(同席)し、奏(上奏…

東漢時代454 献帝(百三十六) 漢中平定 219年(2)

今回は東漢献帝建安二十四年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 三月、魏王・曹操が衆を挙げて南征を開始しました。長安を出発して斜谷を出ます。軍が要地を遮って漢中に…

東漢時代453 献帝(百三十五) 夏侯淵 219年(1)

今回は東漢献帝建安二十四年です。 東漢献帝建安二十四年 己亥 219年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹仁が宛を屠して(皆殺しにして)侯音を斬り、また樊に駐屯しました。 [二] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑…

東漢時代452 献帝(百三十四) 侯音叛乱 218年(2)

今回は東漢献帝建安二十三年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。 曹操が令を発しました「去冬(昨冬)は天が疫癘(疫病)を降し、民に凋傷(疾病死亡)があり、軍を外で興して墾田が損少(減少)したので、吾(私)は甚だこれを…

東漢時代451 献帝(百三十三) 漢臣の謀反 218年(1)

今回は東漢献帝建安二十三年です。二回に分けます。 東漢献帝建安二十三年 戊戌 218年 [一] 『資治通鑑』からです。 魏王・曹操が丞相長史・王必に兵を管理させ、許中の事を監督させていました(典兵督許中事)。 『資治通鑑』胡三省注によると、曹操は漢の…

東漢時代450 献帝(百三十二) 陸遜 217年(3)

今回で東漢献帝建安二十二年が終わります。 [九] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 蜀の法正が劉備に言いました「曹操は一挙して張魯を降し、漢中を定めましたが、その勢いに乗じて巴・蜀を図らず、夏侯淵、張郃を留めて屯守させ、その身…

東漢時代449 献帝(百三十一) 太子曹丕 217年(2)

今回は東漢献帝建安二十二年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 魏が五官中郎将・曹丕を太子にしました。 以下、『資治通鑑』からです。 魏王・曹操はかつて丁夫人を娶りましたが、丁夫人には子ができず、妾の劉氏が曹昂…

東漢時代448 献帝(百三十) 周泰 217年(1)

今回は東漢献帝建安二十二年です。三回に分けます。 東漢献帝建安二十二年 丁酉 217年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 春正月、魏王・曹操が居巣に駐軍しました。孫権は濡須を守ります。 『資治通鑑』…

東漢時代447 献帝(百二十九) 烏桓 南匈奴 216年(2)

今回は東漢献帝建安二十一年の続きです。 [五(続き)] 尚書僕射・毛玠は崔琰の無辜(無罪)に悲傷し、心中で悦びませんでした。 するとある人がまた「毛玠が怨謗している」と報告しました。 曹操は毛玠も逮捕して獄に下します。侍中・桓階や和洽が毛玠のため…

東漢時代446 献帝(百二十八) 魏王曹操と崔琰 216年(1)

今回は東漢献帝建安二十一年です。二回に分けます。 東漢献帝建安二十一年 丙申 216年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、魏公・曹操が鄴に還りました。 『三国志・武帝紀』裴松之注からです。 辛未、有司(官員)が太牢(牛…

東漢時代445 献帝(百二十七) 趙儼 215年(7)

今回で東漢献帝建安二十年が終わります。 [十四] 『資治通鑑』からです(『資治通鑑』だけでは理解が困難なので、『三国志・魏書二十三・和常楊杜趙裴伝』を一部参照します)。 曹操が韓遂、馬超等の旧兵五千余人を遷して平難将軍(『資治通鑑』胡三省注によ…

東漢時代444 献帝(百二十六) 劉備の巴中進出 215年(6)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [八] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 九月、巴・賨の夷帥(少数民族の首領)・朴胡、杜濩、任約がそれぞれ巴夷や賨民を挙げて朝廷(曹操)に来附(帰順)しました。 朝廷は巴郡を分けて朴胡を巴…

東漢時代443 献帝(百二十五) 合肥の戦い 215年(5)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 劉備が公安から帰り、曹操が漢中から帰還してから、孫権も陸口から引き揚げて、途中で合肥を征討しました。 八月、孫権が十万の…

東漢時代442 献帝(百二十四) 隴を得て蜀を望まず 215年(4)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [六] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。 張魯討伐に従っていた丞相主簿・司馬懿が曹操に言いました「劉備が詐力(詐術と暴力)によって劉璋を虜にしましたが、蜀人はまだ附いておらず(帰心しておら…

東漢時代441 献帝(百二十三) 漢中平定 215年(3)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が陽平に至りました。 張魯は漢中を挙げて曹操に降ろうと欲しましたが、弟の張衛が納得しなかったため、張衛と将・楊昂等に衆数万人を率…

東漢時代440 献帝(百二十二) 荊州分割 215年(2)

今回は東漢献帝建安二十年の続きです。 [四(続き)] 呂蒙が出征して長沙と桂陽に書を送ると、どちらも動静を聞いて帰服しました(望風帰服)。 しかし零陵太守・郝普だけは城を守って降ろうとしません。 荊州の動きを聞いた劉備は自ら蜀を発ち、五万の兵を率…

東漢時代439  献帝(百二十一) 韓遂の死 215年(1)

今回は東漢献帝建安二十年です。七回に分けます。 東漢献帝建安二十年 乙未 215年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(十八日)、献帝が貴人・曹氏を皇后に立てました。 魏公・曹操の娘(中女・曹節…

東漢時代438 献帝(百二十) 皇后弑殺 214年(6)

今回で東漢献帝建安十九年が終わります。 [十七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 献帝は許を都にしてから帝位を守るだけで、左右の侍衛は全て曹氏の人でした。 議郎・趙彦が常に献帝に時策(時勢に対応する計策)を進言したため、曹操…